学究:徳富蘇峰(47)関連史料[46]

前回同様、朝日新聞掲載分から確認していきたいと思います。

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72.1909年(明治42年) 1月 22日 「●宇佐川總裁の招宴」

全文引用↓

「宇佐川東拓總裁の都下新聞通信雜誌社招待會は一昨日午後六時より上野精養軒に開催せられたり主人側には宇佐川總裁の外吉原副總裁、林、井上、岩佐各理事、野田松平兩監事、來賓は大岡育造、徳富蘇峰箕浦勝人、池邊吉太郎氏等を始め都下新聞通信雜誌社社長にして六時半食堂を開き宴半にして宇佐川總裁は一應の挨拶を爲せる後大要左の意味を附言せり
 元來余は武骨一片のものにして軍職にある事前後四十年に滿つ今回突然當會社經營の命を拝受す世人が余の大膽を怪む如く余自らも衷心窃に己れの無謀に驚きつヽあり而も韓國の事に至りては聊か自信なきにあらず云ふ迄もなく本會社の事業は日韓兩國の連鎖にして會社事業の成功は兩國の友誼をして一層親密ならしむるものたらずんばあらず希くは諸君の深厚なる友情と有力なる後援とに依り將來の成功を期せんと信ず尚會社事業の實際に至りては未だ具體的に之を云ふ能はざるも經營の一着歩とし第一に土地の調査及其經營に加ふるに差向き金融事業に手を染めんと欲す而も其網目に至りては未だ具體的に之を語るの材料を有せず云々
次で大岡育造氏は一同を代表して簡單に謝辭を述べ七時宴を撤して談話室に入り歓談に時を移して随時退散せり」

⇒宇佐川東拓総裁が中心となり開催した「都下新聞通信雜誌社招待會」の模様を伝えた記事。

 まず「宇佐川」というのは、宇佐川一正のこと。明治期に活躍した周防出身の軍人。
近衛師団参謀、第十師団参謀長、軍務局長、陸軍中将と軍部の重役を務める。1908年、朝鮮に設立された「東洋拓殖株式会社」の初代総裁となった。

 次に「東拓」は、上記の文章にもある「東洋拓殖株式会社」のこと。日露戦争後の1908年12月18日に設立され、1945年の第二次世界大戦終結まで運営を続けた大日本帝国特殊会社である。

 会の来賓としては、大岡育造、徳富蘇峰箕浦勝人、池邊吉太郎ら、都下新聞通信雑誌社の社長が名を連ねている。

 記事の内容は、およそ半分が宇佐川一正が「東洋拓殖株式会社」の総裁を務めていく上での「決意表明」となっており、その中では、新聞通信雑誌社役員への協力要請も行われている。簡単に「決意表明」の中身を、以下に纏めてみることにする。

○私はこれまで、およそ40年間程、軍事関係の役職に就いて働いてきたが、会社経営を任されたのはこれが初めてで、大変不安な心境にある。

○加えて「東洋拓殖株式会社」の運営は、一般の会社経営は意味が異なり、「今後の日韓関係」に大きな影響を持つことになる。

○以上のこともあり、ぜひ新聞通信雑誌社の関係者の皆様に協力をお願いしたい。

○今後の会社事業としては、土地の調査、土地の経営、金融事業を中心に取り組んでいく予定である。

 以上のような、宇佐川一正による「決意表明」が終わった後、来賓代表として、大岡育造からの挨拶があったという。宴は7時に終了し、その後談話室での歓談にうつった。

 

*宇佐川一正関連書籍:日本陸海軍総合事典

 大岡育造関連書籍:日本人と英語 ――もうひとつの英語百年史

 メディア議員関連書籍:近代日本のメディア議員

           

学究:高嶋米峰(46)関連史料[45]

前回同様、朝日新聞掲載分から確認していきたいと思います。

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61.1925年(大正14年) 10月 28日 「木堂會大會」

全文引用↓

「前逓相犬養毅氏を中心として組織された青年木堂會の全國大會を十一月一日午前十時から芝公園の協調會館で開き午後一時から木堂翁を始め鈴木梅四郎高島米峰氏等の講演あり右終つて後神田錦町松本亭で同志大懇親會を開く由」

加藤高明内閣において、1924年6月11日から1925年5月30日まで逓信大臣を務めていた犬養毅を囲んで、11月1日・芝公園協調会館で開催予定の「青年木堂會」全国大会について伝えた記事。「全国大会」と銘打っている点からは、「青年木堂會」に一定の人数の構成員がいることを読み取れる。ちなみに「木堂」とは犬養毅の雅号である。

 本会では、犬養毅、鈴木梅四郎、高嶋米峰の講演を予定し、講演終了後は神田錦町の松本亭で懇親会が開かれる。

 鈴木梅四郎は、明治から大正期に活躍した政治家、実業家。時事新報での記者活動を経て、横浜貿易新報社長、王子製紙専務などを務める。また、社団法人実費診療所を創立したことでも知られる。犬養毅との関連でいえば、犬養の国民党に属して党幹事長を務めた経歴がある。

 

犬養毅関連書籍:犬養毅の世界―「官」のアジア共同論者

         昭和の怪物 七つの謎 (講談社現代新書)

         犬養毅 その魅力と実像

 木梅四郎関連書籍:福沢先生の手紙 修養実訓 (国立図書館コレクション)

 

学究:徳富蘇峰(46)関連史料[45]

前回同様、朝日新聞掲載分から確認していきたいと思います。

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71.1908年(明治41年) 12月 5日 「●日本電報通信社七周年祝宴」

全文引用↓

「既報の如く同社の祝宴は新築の有樂座にて一昨日午後四時同社専務取締役光永氏開會の辭を述べ次に澁澤男爵、長谷場純孝、徳富猪一郎、小松通信局長の演説ありて交同社の事業發達、光永、権藤兩氏の性格等に就きて激賞の辭を述べ午後六時食堂を開きたるが其設備周到にして賓客の滿足を博し終つて餘興に移れり出席者は朝野の名士を網羅し千名に上り近來稀なる盛會なりき」

⇒前回のブログは、日本電報通信社七周年の記念大会が行われる予告の記事であったが、今回は実際に開かれた会の模様を伝えた記事となっている。演説は、澁澤栄一、長谷場純孝、徳富蘇峰らにより行われ、日本電報通信社の事業成長や通信社重役の姿勢などについて賛辞が送られた。食事に関しては賓客のほとんどが満足する内容であったようである。

 記事中で開会の辞を述べたと伝えられる「光永氏」とは「光永星郎(みつながほしお)」のこと。光永は、肥後(熊本)出身の明治から昭和前期活躍した実業家。「めさまし新聞」「福岡日日新聞」などの記者、及び日清戦争時の従軍記者を経て、1901年に日本広告株式会社と電報通信社を設立した。1906年には電報通信社を日本電報通信社(電通)と改組し、翌年に日本広告と合併。1936年からは国策により広告代理業を専業として運営が行われた。

 次に、光永と名を並べて、演説者から賛辞を送られている「権藤」とは「権藤震二(ごんどうしんじ)」のこと。明治期に活躍したジャーナリストで実業家、権藤直の次男、権藤成卿の弟として、福岡に生れる。『毎日新聞』の記者として、日清戦争に派遣、『北国新聞』の主筆などを経て、光永星郎が立ち上げた日本電報通信社の重役に就任した。この職は、1914年にシーメンス事件に連座するまで続く。

 

*「電通」関連書籍:電通と博報堂は何をしているのか (星海社新書)

          田原総一朗 電通

        

学究:高嶋米峰(45)関連史料[44]

前回同様、朝日新聞掲載分から確認していきたいと思います。

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60.1925年(大正14年) 8月 19日 「學藝 緑蔭一話 同姓同名 内田魯庵

一部引用↓

高島米峰の本名はもと大圓であつた。處が同じ佛教界に同姓同名があつて紛らはしいので自ら譲下つて一字を削つて圓と稱した。夫でも矢張時々間違へられるので雅號の米峰と改稱した。(戸籍役場に届けたかドウか知らないが。)が、高島の姓が元來出來合ひだから同じ講演仲間の高島平三郎としばしば混同される。ある時地方へ招聘されて停車場から直ぐ會場へ驅付けるとつじつじ其他の要所要所から會場の入口まで米峰高島平三郎先生講演と大々的にはり出されてるので面食つて了つたといふ奇談もある。もつとも米峰は口も八丁手も八丁だから二人前ぐらゐ勤めるのは何でも無い。」

⇒「高嶋米峰」の姓名に関する興味深いエピソード。

 高嶋の本名はもともと「高嶋大圓」であったが、仏教界に同じ「高嶋大圓」の名をもつ人物がいたため、自分が譲って「高嶋圓」と変えたが、それでも間違えられることが多々あったので雅号の「米峰」に改称した、というものである(戸籍上、「高嶋米峰」となっているかは不明)。

 以上の変遷を経れば、誰からも間違われることがなくなると考えた米峰であったが、そう簡単に解決はしなかった。今度は「高嶋」という苗字により、間違えられることになる。米峰がある地方へ講演に向った際、会場に「米峰高島平三郎」とでかでかと張り出されていたのである。この状況に米峰は「面食つて了つた」。記者は以上を踏まえて、米峰であれば人間違いされても「口も八丁手も八丁だから二人前ぐらゐ勤めるのは何でも無い」と締めくくっている。

 ちなみに「高島平三郎」については、かつて学究:高嶋米峰(35)関連史料[34] - 学究ブログ(思想好きのぬたば)の中で取り上げたことのある人物で、児童心理学者、東洋大学第13代学長(1944年11月から1945年7月の期間)を務めた人物。このブログ中で、高島平三郎の方も、高嶋米峰や片山國嘉と名前や顔貌で間違われることが多いと伝えられている。

 高嶋米峰と高島平三郎、苗字も同じで、顔も似ている。お互い大変である。

 

*高嶋米峰関連書籍:新仏教とは何であったか: 近代仏教改革のゆくえ

 高島平三郎関連書籍:高島平三郎著作集 (学術著作集ライブラリー)

学究:徳富蘇峰(45)関連史料[44]

前回同様、朝日新聞掲載分から確認していきたいと思います。

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70.1908年(明治41年) 12月 1日 「●日本電報通信社七周年祝典」

全文引用↓

「來三日有樂町高等演藝會場に於て擧行せらるべき日本電報通信社七周年大紀念式は其趣向設備十分に行届き殊に食卓の整理装飾等在來の諸集會に其例を見ざる斬新の意匠を凝らし當日來賓に贈呈すべき今代立志編とも云ふべき「實業界の柱礎」は同社が少からざる日子を費して其財料と蒐集したる其内容装灯共申分なく有益且有趣味の紀念物なり開宴前演説すべき諸名士は澁澤男松田正久徳富猪一郎小松通信局長大石正巳等の諸氏、來會者は可成フロツクコートを用ひ羽織袴の人は靴を穿たれたしとなり」

⇒1901年創立の「日本電報通信社(電通)」の創立七周年を記念した会の予告記事。会は、その他の諸集会とは一線を画する、趣向を凝らした内容となる予定である。実例として、参会者に対して「實業界の柱礎」という冊子が配られる。参会者には、フロックコートの着用が示され、羽織袴の人でも靴を履くことが求められる。本会の演説者としては、澁澤栄一、松田正久、徳富蘇峰らの名が並ぶ。

 松田正久は、肥前(佐賀)出身の明治期の政治家。陸軍省の一員としてフランス留学を経た後、長崎県会議員、第1次大隈重信内閣の大蔵大臣、衆議院議長、第1次・第2次西園寺公望内閣の司法大臣などを務めた。また、1900年時の立憲政友会の創立にも参画した。

 

渋沢栄一関連書籍:雨夜譚―渋沢栄一自伝 (岩波文庫)

          現代語訳 渋沢栄一自伝 「論語と算盤」を道標として (平凡社新書)

 松田正久関連書籍:松田正久と政党政治の発展:原敬・星亨との連携と競合 (MINERVA日本史ライブラリー)

学究:高嶋米峰(44)関連史料[43]

前回同様、朝日新聞掲載分から確認していきたいと思います。

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59.1925年(大正14年) 7月 13日 「床次總裁の宗教家招待會―昨夜芝公園三綠亭で―」

全文引用↓

「床次政友本黨總裁は十二日午後五時から芝公園三綠亭に都下の佛教團體の代表者三十餘名を招いて一夕の宴を催した、青松寺の佐藤鐡額、増上寺の道重嶺丸兩師を初め加藤咄堂、高島米峰、紀平正美氏等の顔も見○たデザートコースに入るや床次氏から「私は常に漸進主義である改革よりも改良主義を重んずる今や普選が實現した結果千三百萬人の有識者が殖○たがその人達の考へ様一つでは國運の上に重大なる影響があります、そこで普選の運用を過らぬやうにする爲には宗教家諸氏の御盡力を願はねばならぬ」と懇請して宴を閉ぢ休憩室で道重師や高島米峰氏から政治家に對する希望があつて八時半過ぎ散會した」

⇒1925年7月12日の午後5時から、東京にある仏教団体の代表者を招待し、床次竹二郎が芝公園三綠亭で開いた「宗教家招待會」の模様を伝えた記事。代表者には、これまでずーっとブログで記事を追ってきた高嶋米峰をはじめ、頻繁に見かける加藤咄堂、青松寺の佐藤鐡額、増上寺の道重嶺丸両師の名前が確認できる。

 この記事では、食事中(デザートコース)での床次のコメントが取り上げられている。その内容は以下のように纏められる。

○私は漸進的な改革よりも、改良主義を重視している。

○1925年(大正14年)5月5日に普通選挙法が公布されたことにより、満25歳以上の男子すべてに選挙権が与えられることになる。その影響により、有権者は千三百萬人ほどに増えることになるが、彼らによる選択が国運を正しい方向に進めるものになるように、宗教者にはご協力をお願いしたい。

 また、食事が終わり宴が閉じたあと、休憩室にて高嶋米峰と道重嶺丸から政治家への要望があったようである。

 参会した宗教家について、少し触れる。

 佐藤鐡額については、右記のHPに名前が確認できる⇒永平寺六十七世 北野元峰禅師 - 心の指針となった永平寺の禅師

 増上寺の道重信教は、明治から昭和前期に活躍した宗教者、教育者で、仏教の民衆化につとめた人物。1900年に、増上寺山内に仏学院を創設、徳富蘇峰寺内正毅らに仏教を講じた。1923年に、増上寺第79代法主に就任。関東大震災の際は、飛行機による空中からの死者回向を行ったこと、在家信者のためのラジオ法話に取り組んだことなどで知られる。

 

増上寺関連書籍:増上寺物語(ゴマブックス大活字シリーズ)

         増上寺 徳川将軍墓とその遺品・遺体

 紀平正美関連書籍:紀平正美 認識論 (NDL所蔵古書POD[岩波書店])

学究:徳富蘇峰(44)関連史料[43]

前回同様、朝日新聞掲載分から確認していきたいと思います。

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69.1908年(明治41年) 11月 26日 「●ヘヂン博士の席畫(三井家の午餐會)」

全文引用↓

「廿五日午前ヘヂン博士は三井家の依賴に應じ三井銀行に赴きて講演をなしたるが聴者は同店員の外、日本銀行及正金銀行員等なりき午後一時より三井集會所に於て博士に午餐を呈せり主人側は男爵三井八郎右衛門同元之助、同三郎助三氏の外益田孝、高橋義雄、波多野承五郎、團琢磨の諸氏、陪賓はワーレンベルグ侯、花房子、岡田文部次官、和田維四郎、大森大學教授、井上地質調査所長 福澤捨次郎、箕浦勝人、大岡育造、徳富蘇峰、志賀矧川、黒岩涙香等の諸氏にて主客二十四人三井男の挨拶に對しヘヂン博士の愛嬌ある答辭にて一同三鞭を傾けたる後、別席に移り餘興として春山、江亭兩畫伯の揮毫あり繪畫の趣味に乏しからぬ 博士は熱心に之を眺めつヽありしが遂に迫られて一葉の絹本に對し何の苦もなく筆を馳せたる其結果は勇悍らしき西藏兵の鎗を手にして立てるもの忽ちに出現せしかば一同期せずして拍手し其多能に驚き合へり斯くて午後五時より博士は講演の爲め華族會館に赴きぬ」

⇒スヴェン・ヘディンの動向を追った記事。ヘディンについては「学究:徳富蘇峰(42)関連史料[41] - 学究ブログ(思想好きのぬたば)」を参照。

 今回の記事では、ヘディンが三井家の依頼・招待に応じて、三井銀行における講演、三井集会所における午餐に足を運んた模様が描かれている。徳富蘇峰は、陪賓の一人として名を連ねる。

 午餐のあとは、「春山、江亭兩畫伯の揮毫あり繪畫」を鑑賞し、それに触発されたヘディンは一葉の絹本に、スラスラと鎗をもつ西藏兵を描き、他の参会者を驚かした。

 午後五時からは華族会館においても講演があったようである。

 午餐の主人・陪賓メンバーの中から幾人かを取り上げて、簡単な紹介を行う。

 波多野承五郎は、三井銀行において理事、監査役等を務めた人物。詳しくは「

波多野承五郎 | 近代日本人の肖像」を参照。

 和田維四郎については「和田維四郎 | 近代日本人の肖像」を参照。

 福澤捨次郎は、明治から大正期に活躍したメディア人で、福沢諭吉の次男として生をうける。ボストン大学工学部へ留学後、山陽鉄道技師となる。父・諭吉の没後、「時事新報」社長を継ぎ、「大阪時事新報」を創刊する。紙面改良策として漫画の採用を試みたことで知られる。

 箕浦勝人については「学究:徳富蘇峰(22)関連史料[21] - 学究ブログ(思想好きのぬたば)」を参照。

 志賀矧川は志賀重昂のこと。

 

*和田維四郎関連書籍:日本鉱物文化語彙攷 (研究叢書)

 時事新報関連書籍:漫言翁 福沢諭吉―時事新報コラムに見る明治

          近代日本のメディア議員