学究:徳富蘇峰(46)関連史料[45]

前回同様、朝日新聞掲載分から確認していきたいと思います。

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71.1908年(明治41年) 12月 5日 「●日本電報通信社七周年祝宴」

全文引用↓

「既報の如く同社の祝宴は新築の有樂座にて一昨日午後四時同社専務取締役光永氏開會の辭を述べ次に澁澤男爵、長谷場純孝、徳富猪一郎、小松通信局長の演説ありて交同社の事業發達、光永、権藤兩氏の性格等に就きて激賞の辭を述べ午後六時食堂を開きたるが其設備周到にして賓客の滿足を博し終つて餘興に移れり出席者は朝野の名士を網羅し千名に上り近來稀なる盛會なりき」

⇒前回のブログは、日本電報通信社七周年の記念大会が行われる予告の記事であったが、今回は実際に開かれた会の模様を伝えた記事となっている。演説は、澁澤栄一、長谷場純孝、徳富蘇峰らにより行われ、日本電報通信社の事業成長や通信社重役の姿勢などについて賛辞が送られた。食事に関しては賓客のほとんどが満足する内容であったようである。

 記事中で開会の辞を述べたと伝えられる「光永氏」とは「光永星郎(みつながほしお)」のこと。光永は、肥後(熊本)出身の明治から昭和前期活躍した実業家。「めさまし新聞」「福岡日日新聞」などの記者、及び日清戦争時の従軍記者を経て、1901年に日本広告株式会社と電報通信社を設立した。1906年には電報通信社を日本電報通信社(電通)と改組し、翌年に日本広告と合併。1936年からは国策により広告代理業を専業として運営が行われた。

 次に、光永と名を並べて、演説者から賛辞を送られている「権藤」とは「権藤震二(ごんどうしんじ)」のこと。明治期に活躍したジャーナリストで実業家、権藤直の次男、権藤成卿の弟として、福岡に生れる。『毎日新聞』の記者として、日清戦争に派遣、『北国新聞』の主筆などを経て、光永星郎が立ち上げた日本電報通信社の重役に就任した。この職は、1914年にシーメンス事件に連座するまで続く。

 

*「電通」関連書籍:電通と博報堂は何をしているのか (星海社新書)

          田原総一朗 電通