学究:徳富蘇峰(54)関連史料[53]

前回同様、朝日新聞掲載分から確認していきたいと思います。

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79.1909年(明治42年) 6月 1日 「世界見物 藪野椋十(卅四)他生の緣 車中の友達― 煙草の交はり―無言の友―日本の猫の數―穴のある錢―漱石型と蘇峰型」

全文引用↓

「汽車の中で大分友達が出來た、其内に直接に出來た無言の友と、通辯は介まつたのとの區別がある、喫煙室で何時もよく隣に座りあはせる老爺がある。鼻柱の二段曲つて今一曲り曲りかヽつた處を生憎終ひに爲つた様なむづかしい格好の鼻と俺は見て居るが、先方では又俺の事を鼻の小さい――はなといふより蕾の老爺と思うとるぢやらう。何遍目からか雙方目禮しあふ様になつた。何とか話しかけられたこともあつたが、俺からは話しかけぬ、其處は俺が眼が高いのぢや、先方は俺を英語を話す人と買ひ被つたのぢやらうが、俺は先方が迚も日本語の話せぬものと一目に見極めて了つたのぢや。尤も近來俺も中々英語が話せるし日進の勢ひで文字は數の有らん限り覺して了つたし(たツた廿六字しか無いのだけれど)言葉數も無慮百餘りも使へる様に爲つて居るし、準備して來た中等教科書に依つて歐米の地理歴史の大要も腹に入れて、略治亂興廢の跡を知り、外國にも古へより仁義道徳の道あることや、忠魂義膽も強ち日本軍人の一手物で○無い事まで看て取つて居る一角の西洋通であるから、彼の老爺さんが買被るも無理ではないが、實の處英語ばかりで話すにはちと不足ぢや。ぢやから、已むを得ざるに出ざれば我の短を以て彼の長に對ふことはせぬ。古へより財を以て彼の長に對ふことはせぬ。古へより財を以て交はる者もあれば酒食を以て交はる者もある。道を同くして交はるもあれば、癖が似てるで交はるもある。
俺と彼の二段曲り半の鼻の老爺とは煙草で近き、眼色で親み、交らなくて交はつて居るのである。彼の指は俺のより倍太い、俺のが土を掘つたのであれば、彼の働いて來て餘計金溜めた爺に違ひない、面の皮も慾の皮も俺のより好く鍛へてありさうな、話させたら聞いたばかりで何がしか得のいく様なキビキビとした金蓄談をするであらうもの。
苔野が通辯で出來た友達には、早速に損をさせられる。「叔父さん、何か此の少年にやる者は有りませんか、日本の貨幣でもあれば見慣れぬから喜びますよ」といふ。貨幣ならば見慣れたつて貰へば喜ぶに相違ない、何も少年に限つたことは無い、併し末の子に似た年輩と思へば可愛くもあるから、一錢銅貨をやつた。苔野が通辯で此の少年はなかなか饒舌る。
 「叔父さん、世界廻るんだつてネ、面白いでせう、色々な動物が居て……あの日本に猫が居ますか。
 「居りますとも。
 「鳴きますか。
 「それは鳴きますとも。
 「何と言つて鳴くの、叔父さん。
 「ニヤゴニヤゴ(と鳴聲をまねてきかせると子供は大喜び)
 「面白い鳴き聲だ、そして其は大きいでせう。
 「子猫は小さい、親猫は大きいな。
 「どの位。
 「困つたな。まづ此の位(と手真似をして見せる)
 「そんなに、大きいの、そして其んなのが何匹居るの、日本には。
俺にも苔野にも到底解らんことに爲つた。先方が成人なれば直に亞米利加の鼠の數でも訊いてやるけれども子供では喧嘩にならぬ、こちらが大負ぢや、はヽヽヽ。
其れから子供の親が先刻の銅貨の御禮をいふ。一處に來た其友達と來て共に色々の貨幣の談に渉つて巾着から卅種許りの金銀銅貨を出した、其中に乾隆通寶が一枚ある、我等の眼には何ともないが卅餘種の中では目立て見したる、持主は四角な孔が變だ、孔が圓いのが便利だらうと言ふ、苔野が成程と感心して居るから、俺は急に「其感心は取消せ取消せ、そもそも錢は天は圓く地は方なりとの象徴で深い意味のあることぢやと言へば、苔野は「駄目ですよいくら象どつてばかりあつたつて、現在見た眼に面白くなく使ふに便利でなくては誰も感心しませんから」
食堂車で苔野が屡俺の袂を牽いて注意した人物が有つた、後に聞けば苔野が崇拝する兩先生にそつくりといふ事だ、一人は漱石先生に痘痕の無いばかりで額から眼、鼻、髯の撥ね具合寸分違はぬといふ、娘の子二人を伴れて一の食卓を圍んで默つたきりで食事を濟ませた。今一人は半白の男で年下の男と差向ひ、盛んに饒舌りもすれば喫べもする忙しい間に、やれ、忘れて居たと大急ぎに眼をしばたたく、其時の小鼻と鼻の孔の格好が蘇峰先生に彷彿ぢやげな。」

⇒藪野椋十(やぶのむくじゅう、別名・渋川玄耳(しぶかわげんじ))の世界見聞記の中の一話である。一記事として、大変長文であるため、段落ごとに簡単な纏めを行なう。

 一段落目では、著者が長い汽車旅行の中で経験した「友達づくり」のエピソードが記されている。著者は日本人であるため、英語の能力が十分だとは言えず、一方汽車の中で出会う人は日本語が話せない。このように言語の壁があるときであっても、言語以外の方法で交友を結ぶことはできると、藪野は語っている。その具体例が、二段落目で示される。

 著者が汽車内で出会ったある老人とは、互いに「煙草」を好むということで近付き、言語的コミュニケーションはなくとも、目で挨拶を交わす。著者は相手からの自己紹介を聞かないままに、容貌などから性格を予想している。

 三段落目では、藪野(と彼の旅仲間・苔野)が汽車の中で出会った子どもとの「猫」に関する会話が紹介されている。へたに通辯(通訳)がうまく交わされたりすると、あまりいいことには繫がらないと、藪野は主張したいようだ(記事中では、一銭銅貨をあげる/猫の話を長々することになった)。

 四段落目では、三段落目での「一銭銅貨」の話が派生して、「乾隆通寶」に関する議論が展開している。議論の中身は「どうして、乾隆通寶の孔は四角いのだろう?」であった。

 五段落目では、旅仲間・苔野が汽車の中に発見した「夏目漱石」と「徳富蘇峰」のそっくりさんの様子が記されている。これがもし本物であったら……面白い。

 最後に、この記事の執筆者である藪野椋十について。藪野は、主に「渋川玄耳」の名で、明治期を中心に活躍したジャーナリストで、フリージャーナリストの先駆けとも言われる。陸軍法務官として熊本県に在住していた際、夏目漱石主宰の俳句結社紫溟吟社に参加し、機関紙『銀杏』を創刊。熊本の俳句文化に大きな影響を与えた。また、日露戦争時に従軍法務官として満州に出征した際、弓削田精一(東京朝日新聞特派員)と親しくなり、『従軍三年』を出版、さらに弓削田の推薦で池辺三山主筆(熊本出身)に請われ、東京朝日新聞に入社した。「辣腕社会部長」として活躍する。(夏目漱石石川啄木を東京朝日新聞で繫げたのも藪野の働きかけによる。『一握の砂』の序文は、藪野椋十により執筆される)。1912年11月に東京朝日新聞を退社後は、フリーランスとなった。

 

渋川玄耳関連書籍:佐賀この地この人 (1985年)

          玄耳と猫と漱石と

          評伝 渋川玄耳

 池辺三山関連書籍:文学者の日記〈1〉池辺三山(1) (日本近代文学館資料叢書)

          文学者の日記〈2〉池辺三山(2) (日本近代文学館資料叢書 第1期)

          文学者の日記〈3〉池辺三山(3) (日本近代文学館資料叢書 第1期)

学究:高嶋米峰(53)関連史料[52]

前回同様、朝日新聞掲載分から確認していきたいと思います。

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68.1926年(大正15年) 3月 10日 「世相は動く 成年とは何歳か 娼妓取締規則の改正に就て【下】 高島米峰

全文引用↓

「二種ならまだしもだが、二種でとどまらないから、ますます疑問が大きくなる。それは、日本には娼妓取締規則といふものがあつて……實に世界の汚辱だ……十八歳以上の女性は、娼妓として、人肉に市を展開することが出來ることになつて居る。そこで、日本の政府は、この娼妓取締規則維持のために、千九百二十一年九月三十日の、婦人兒童の賣買禁止に關する國際條約に對し、その最終議定書(ロ)項に規定せられた、年齢制限二十一歳といふのを、十八歳にして置いて欲しいといふことを通告したのである。(この國際條約に留保條件を付したのは、世界中に日本とシヤムとだけである。)
 それもよいとして、何故に、かかる留保條件を付したかといふ理由の一つとして日本の女性は、滿十八歳にして身心共に發育が十分だからといふのである。身心の發育が十分だといふのは、人間としての、能力を備へて居るといふことである。民法では滿二十歳で一人前の人間として認められない日本の女性も、娼妓取締規則だけでは、滿十八歳で、一人前の人間として認められるといふのである。誠に光榮の至りではないか。
 そこで、くどいやうだが、吾々の實際生活の上では、男性は、二十歳も成年だ、三十歳も成年だといふことになり女性は十八歳も成年だ、二十歳も成年だ、そして、何歳になつても成年とは言へないといふ妙なことになる。
 拙者の愚問の要點はこれだ。
 成程なア。
 理屈はいろいろあらうが、兎も角、成年が幾種類もあるといふのは、變なものだ。と言つて、すべてを現行娼妓取締規則に準じて、男女とも、滿十八歳を以て、成年とする譯にはゆかない。結局、民法の、滿二十歳を以て成年とするといふのに、統一するより外はあるまい。但し婦人賣買の如き人道上の問題は、必ずしも、成年未成年を以て、論ずべきではない。それは絶對禁止を理想とすべきであつて、世界がさしあたり、廿一歳とするとならば、日本もまた當然廿一歳とすべきこと、もとより言ふまでもない。
 かくて、二十歳台の代議士……男のも女のも……が、議場に少からずイスを占め得るやうになつたら、どんなにか、帝國議會といふものが、浄化せられることであらう。(大正一五、二、二八)」

 ⇒この記事は、前回のブログ(⇒学究:高嶋米峰(52)関連史料[51] - 学究ブログ(思想好きのぬたば))で紹介した記事(1926年(大正15年) 3月 9日 「世相は動く 成年とは何歳か 娼妓取締規則の改正に就て【上】 高島米峰」)の続きである。まだお読みでない方は、ぜひ前回のブログを確認してみてください。

 記事の冒頭にある「二種」とは何か?。それは「成年」を規定する法律2つのことである。その「法律2つ」とは、民法普通選挙法(高嶋米峰は「不通選挙法」とよぶ)。高嶋は上記の二法律に加えて、「成年」の定義を曖昧にする法律として、18歳から女性を娼妓として働かせることができる「娼妓取締規則」を取り上げて、批判を加えている。「日本は「婦人児童の売買禁止に関する国際条約」に定められた年齢制限21歳を、自国の「娼妓取締規則」の年齢制限18歳に合わせるために、留保条件を示した国である」⇒この事実には驚かされる。

 上記の留保条件を、なぜ日本政府は提出したのか?。政府は、女性は満18歳になれば身心ともに発育が十分になるから、と見解を示す。これに対して高嶋は、民法では満20歳で一人前の人間(成年)とされるのに、娼妓取締規則だけでは満18歳と規定されているのはどういうことか、と疑問を呈している。

 以上の事から日本では、「成年」を規定する年齢が、満20歳、満25歳、満18歳……と定まっていないといえる。

 高嶋は、「成年」を考える上では民法における満20歳を採用し、満18歳という規定を示す「娼妓取締規則」については、そもそも「婦人売買」という行為自体に問題があるのではないかという疑問を前提に、せめて国際規定の「満21歳」を護るべきだと主張する。そして最後に、「帝国議会」に若き男女の代議士の姿が見られるようになることを願い、本稿は閉じられている。

 

*「児童売買」関連書籍:世界商品と子供の奴隷―多国籍企業と児童強制労働

 帝国議会関連書籍:帝国議会―西洋の衝撃から誕生までの格闘 (中公新書)

          全国政治の始動: 帝国議会開設後の明治国家

 

学究:徳富蘇峰(53)関連史料[52]

前回同様、朝日新聞掲載分から確認していきたいと思います。

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78.1909年(明治42年) 5月 31日 「●國際新聞協會發會」

一部引用↓

「國際新聞協會の成立は正しく日本の新聞史上に一新紀元を畫せるもの也、日本に新聞始まつて以來斯許り有力なる記者の相集まれることなく斯迄に朝野の間に重視せられたる會合を見ず、往年内外新聞記者懇話會なるものありしかど一兩回にして潰して、後外電記者俱樂部なるもの起こりが之も外電に關係ある記者のみの會合たるに過ぎざりき、今回の國際新聞協會に至つては都下の重要なる新聞記者はいふも更なり英米獨蘭等の新聞社通信社にして苟も其特派員を此地に派したらん限りの者は悉く來つて協會の旗下に集まれり之を國別にして五個國、之を社數に算して二十四社、會員の數未だ甚だ多からずと雖も其新聞紙界に重きをなすべきは英國の皇立新聞記者協會に異らず而して此重要なる一大團體は一昨廿九日タイムスのチロル氏等が破格の拝 を遂げたる當日を以て帝國ホテルに堂々たる一大發會式を擧行したり四月廿日初めて創立委員二十餘名の會合を見たる後此に至る迄日を經ること約五十日(中略)
△發會式晩餐會を開けり陸軍戸山學校軍樂隊の奏樂に伴ひて夫々設けの席に着き會長箕浦勝人氏を中心に伊藤公桂侯チロル氏モリソン氏ヘンリー、ジヨーヂ氏の主賓其左右に居流れ副會長徳富猪一郎ブリンクリーの二氏は中央に委員長ケネデー氏は主賓と反對の席の中央を占めたり湧くが如き歓聲の裏に晩餐の献立次第に進みて愈デザート、コースに入るや箕浦會長の發聲にて一同 天皇陛下の萬歳を三唱し次でブリンクリー氏は立つて伊藤公の爲に乾杯の辭を述ぶ(以下、省略)」

⇒「国際新聞協会」の成立とその意義、発会式の模様などについて伝えた記事。

 「国際新聞協会」の価値については、以下のような纏めることができる。

 ①これまでに成立した「内外新聞記者懇話會」や「外電記者俱樂部」などの記者団体とは異なり、参加する記者や新聞社に広がりがある。

 ②イギリス、アメリカ、ドイツ、フランスの新聞社通信社に所属する特派員が協会に参加していること。参加している会社は二十四社を数える。

 記事後半部分では、5月29日に開かれた「発会式晩餐会」の様子が伝えられる。

 主なる参加者としては、箕浦勝人、伊藤博文桂太郎、チロル、モリソン、徳富猪一郎、ブリンクリーらの名前があがっている。(ブリンクリーについては、学究:徳富蘇峰(49)関連史料[48] - 学究ブログ(思想好きのぬたば)を参照。)

 発会式の中で、箕浦勝人発声のもと「天皇陛下の万歳を三唱する」のは、印象的な場面であると言える。

 

伊藤博文関連書籍:伊藤博文 近代日本を創った男 (講談社学術文庫)

          伊藤博文演説集 (講談社学術文庫)

          伊藤博文と明治国家形成 「宮中」の制度化と立憲制の導入 (講談社学術文庫)

 陸軍学校関連書籍:参謀本部と陸軍大学校 (講談社現代新書)

学究:高嶋米峰(52)関連史料[51]

前回同様、朝日新聞掲載分から確認していきたいと思います。

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67.1926年(大正15年) 3月 9日 「世相は動く 成年とは何歳か 娼妓取締規則の改正に就て【上】 高島米峰

全文引用↓

「變なことを尋ねるやうだが、日本では、一體、人間の成年を、何歳ときめて居るのだらう。
 冗談ぢやない。民法のまづ最初に滿廿歳の人間を以て成年としその能力を認めて居るではないか。
 イヤ、その位のことは、失禮ながら、拙者も承知して居るのだ。ところが吾々の實際生活上、果してその民法の條文が、條文通りに、活用されて居るかどうかを考へる時、そこに「日本人の成年は何歳だ」といふ愚問が起つて來るのである。マア、かうだ、聴いてくれ給へ。
 今更らしく、立憲政治の本義などと、開き直つて申上げるまでもなく、それは政治家と稱する、少數の人々だけの政治でなくて、國民の政治でなくてはならない。いはゆる國民とは、國家が、その能力を認めた人間であるとするならば、滿二十歳以上、即ち國法上成年に達した人間は、總て政治に参與し得べきものでなくてはならない。若し成年に達しながら、政治に参與し得ないものがあるならばそれは一人前の國民ではなくて、「國民見習」とか「國民心得」とか、さては、ずつと高く買つて、「國民事務取扱」とでもいふべきものであらう。
 ところで、新選擧法――人は、普通選擧法と言つて居るが、拙者は、不通選擧法と呼んで居る。と言ふのは、國民の半數である女性に不通であり、選擧権において二十五歳以下の男性に不通であり、被選挙権において三十歳以下の男性に不通であり、殊に、不合理にも、刑余者に對して、全然不通であつて、七千萬國民の、大多数に不通なる選擧法を、普通選擧法と呼ぶ程の雅量を、拙者は持合はせて居ないから、――に依ると、日本人の、しかも男性の國民としての能力を、二十五歳、若くは三十歳以上において、これを認めることにし、女性に對しては、全然、その國民としての能力を、認めないのであつて、女性は到底、政治上の成年者たるべき、可能性のないものとせられ、男性も、廿五歳若くは三十歳未滿では、政治上の未成年者として取扱はれるのである。それは恐らく、民法で認めて居る人間の能力といふものゝ中には、政治的能力といふものは、加はつては居ないといふことを主張するのであらう。
 民法で、一人前の人間だと認めて居るものも、選擧法では「人間見習」とか「人間心得」とか、としてしか認めてくれないことを不都合だと言つて、當局を責ても、手答へは無いかも知れない。それは、立法者が、男性ばかりだといふところに女性の不利があり、老人ばかりだといふところに青年の不利がある。そこに、日本人の成年に、二種類出來上らなければならない原因が、伏在して居るのではあるまいか。」

⇒高嶋米峰の「成年論」「娼妓取締規則改正論」に触れることができる記事。

 高嶋はまず、冒頭から「日本では人間の成年を、何歳ときめているのか」と問いかけ、民法で満20歳と決められてはいるものの、それが徹底されているのかに疑問を呈している(1~3段落目)。

 次に、高嶋の国民論、政治論が説かれる。立憲政治の名のもとにおいては、成年となったものは政治に関与する資格を持ち、もし政治に参加できないものがいるとすれば、それは「国民」とは言えず、「國民見習」「國民心得」「國民事務取扱」などと称すべき存在である(4段落目)。

 次段では、1925年に加藤高明内閣により制定された「普通選挙法」に対して、内容の不充分さからして「不通選挙法」と呼んでも差支えないものと主張している。その主なる理由としては、女性、(選挙権における)25歳以下の男性、(被選挙権における)30歳以下の男性、刑余者に、適切な権利が認められていないことがあげられている。民法では、成年を「満20歳」からと決めているにもかかわらず、選挙権や被選挙権においてそれが守られていないのは間違いである。これでは民法の認める人間の能力の中に、政治的能力は加味されていないことになるだろう(5段落目)。

 最後に高嶋は、上記のような「矛盾」が生じている原因として、政治の中心にいるものが、「男性+年寄り」に偏っていることをあげ、どうしてもその反対に位置する「女性」や「青年」には不利な状況が生まれやすくなっていると指摘している(6段落目)。

 

加藤高明関連書籍:加藤高明: 主義主張を枉ぐるな (ミネルヴァ日本評伝選)

          国民国家と戦争 挫折の日本近代史 (角川選書)

          滞英偶感 (中公文庫)

 

学究:徳富蘇峰(52)関連史料[51]

前回同様、朝日新聞掲載分から確認していきたいと思います。

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77.1909年(明治42年) 5月 27日 「●首相邸午餐會」

全文引用↓

「桂總理大臣は廿六日官邸に於て來朝中のタイムス外報主任チロル同北京特設通信員モリソン兩氏の爲めに午餐會を催し左の人々を招待せり
 英國代理大使ラムポールド氏、松方侯、林伯、福島中將、後藤男、齋藤男、高橋男、石井次官、若槻次官、長谷場議長、添田興銀總裁、柴田内閣書記官長、倉知政務局長、萩原通商局長、清野滿鐡理事、アニソン氏、プリンクリー氏、徳富猪一郎氏及我社の土屋元作」

桂太郎首相が、日本を訪れている『ロンドン・タイムズ』のチロルとモリソンを招いて、午餐会を開いた模様を伝えた記事。チロルとモリソンについては、前回の記事(⇒学究:徳富蘇峰(51)関連史料[50] - 学究ブログ(思想好きのぬたば))を参照。

 午餐会に招待された人物のうち、幾人かをとりあげてみる。

 「添田興銀總裁」とあるのは、添田壽一のこと。添田は、明治から昭和期に活躍した大蔵官僚で、金融部門において台湾銀行頭取、日本興業銀行総裁を務めた。また、他分野においても中外商業新報社長、報知新聞社長、勅選貴院議員などを務めた。

 「清野滿鐡理事」とは、清野長太郎(せいのちょうたろう)のこと。清野は、明治から大正期に活躍した内務官僚。秋田県知事や満鉄理事、兵庫県知事、神奈川県知事などを務める。兵庫県知事時代においては、社会事業政策として職業紹介所の設立に努めた。関東大震災における復興局長官に就任したことでも知られている。

 土屋元作は、明治から昭和前期の新聞記者。早稲田専門学校に学び。のちに福沢諭吉に私淑。時事新報社、大阪毎日、大阪朝日、国際通信社等、様々なメディアで勤務し、その経験が買われ大阪時事新報社主筆となる。

 

添田壽一関連書籍:日本のエコノミスト (1984年) (エコノブックス〈6〉)

 桂太郎関連書籍:桂太郎―予が生命は政治である (ミネルヴァ日本評伝選)

         宰相桂太郎―日露戦争を勝利に導いた首相の生涯 (光人社NF文庫)

         近代日本の予算政治 1900-1914: 桂太郎の政治指導と政党内閣の確立過程

学究:高嶋米峰(51)関連史料[50]

前回同様、朝日新聞掲載分から確認していきたいと思います。

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66.1925年(大正14年) 12月 8日 「國民的『建國祭』來春から擧行す 全國の鎮守の森や公會堂等で簡素に」

全文引用↓

永田秀次郎氏や日本青年館理事の丸山鶴吉氏等によつて企てられてゐた建國祭はいよいよ大體まとまりを見たので七日午後二時から青山外苑日本青年館で準備委員有志約百名、集まつて準備總會を開いた、頭山滿翁、長岡將軍 高島米峰、加藤咄堂、平沼騏一郎諸氏の顔も見○た、建國祭宣言書から實行方法などスラスラと解決されたのでいよいよ來春二月十一日の紀元節を期し全國的に建國祭をあげることゝなり直にこの宣傳や準備に取りかゝることに話がまとまつて閉會した
 それによると東京では最も盛大に行ふはすで當日宮中にて紀元節御擧式の時刻を期して市内外の在郷軍人會、青年團、少年團、學生團から勞働思想、教化、婦人等の凡ゆる團體が参集して簡單で力強い式がつづき同時刻全國各地でも鎮守森や公會場でそれぞれに式をあげるのである」

⇒1926年の2月11日に挙行予定の「建国祭」に関する記事。

 「建国祭」は、永田秀次郎や丸山鶴吉らによって提案・準備されていたもので、その最終段階としての「準備総会」が、青山外苑日本青年館で行なわれた。「準備総会」では、建国祭宣言書や実行方法の中身や、紀元節の日に全国規模で建国祭を行うことが決定された。会には、頭山満、長岡外史、高島米峰、加藤咄堂、平沼騏一郎らも参加していた。

 永田秀次郎については、永田秀次郎 | 近代日本人の肖像を参照。

 丸山鶴吉については、丸山鶴吉 | 近代日本人の肖像を参照。

 上記にある長岡外史は、明治から昭和前期に活躍した軍人・政治家。大本営参謀次長(日露戦争時)や陸軍中将、軍務局長、衆議院議員などを務めた。また、スキー技術を日本にはじめて紹介した人物としても知られる。(長岡外史の玄孫には、芥川賞作家の朝吹真理子がいる。)

 「建国祭」には、在郷軍人会、青年団、少年団、学生団、労働関係、教化関係、婦人関連など、あらゆる団体の協力が呼びかけられている。

 

永田秀次郎関連書籍:幻の東京オリンピック 1940年大会 招致から返上まで (講談社学術文庫)

 丸山鶴吉関連書籍:植民地帝国人物叢書 25(朝鮮編 6) 在鮮四年有余半

 長岡外史関連書籍:日本近現代人物履歴事典 第2版

学究:徳富蘇峰(51)関連史料[50]

前回同様、朝日新聞掲載分から確認していきたいと思います。

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76.1909年(明治42年) 5月 25日 「●チロル氏」

全文引用↓

「モリソン氏と談話の後後藤逓相を訪ひ歸途徳富氏を訪問し一旦英大使館の寓所に歸り午後三時半よりブリンクリー氏と市中見物に出懸たり」

⇒ ロンドンタイムスの記者であった「チロル氏」の動向を追った記事。

 動きとしては「モリソン氏との談話⇒後藤逓相訪問⇒徳富蘇峰訪問⇒英国大使館⇒ブリンクリー氏と市中見物」となる。

 モリソンとは、「ジョージ・アーネスト・モリソン」のこと。オーストラリア出身のジャーナリストで、『ロンドン・タイムズ』通信員として活躍した。日本との関連でいえば、以下の二つが有名なものとしてあげられる。

①『ロンドン・タイムズ』の代表として、ポーツマス会議に出席。

②モリソンが蒐集した極東関係の文献はモリソン文庫として有名であり、岩崎久弥がこれを購入することで、東洋文庫設立の足掛かりとした。

 記事中で動向が伝えられる「チロル氏」も『ロンドン・タイムズ』の記者で、徳富蘇峰とも交流があった。

 「ブリンクリー氏」とは、「フランシス・ブリンクリー」のこと。ブリンクリーは、イギリス出身のジャーナリストで、勝海舟との交流により海軍省のお雇い外国人として活躍した。また、浮世絵師である河鍋暁斎に入門したことでも知られている(⇒を参照)。

 

*モリソン関連書籍:日露戦争を演出した男 モリソン(全2巻)上

          日露戦争を演出した男 モリソン(全2巻)下

          北京燃ゆ―義和団事変とモリソン

          北京のモリソン: 激動の近代中国を駆け抜けたジャーナリスト

           G・E・モリソンと近代東アジア: 東洋学の形成と東洋文庫の蔵書