学究:高嶋米峰(56)関連史料[55]

前回同様、朝日新聞掲載分から確認していきたいと思います。

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71.1926年(大正15年) 7月 17日 「廢娼運動の三恩人 矯風會と廓清會が招待」

全文引用↓

「公娼廢止運動に力を注いでゐる婦人矯風會と廓清會では明治三十三年名古屋において自らは楼主側の暴力に血にまみれながら遂に自由廢業の端緒を開いた宣教師ユー・ヂ―・モルフイ氏が去る五月中旬再び來朝し近く上京するのを好機として同氏および同年東京に起つた自由廢業問題に力を盡し、娼妓取締規則の發布となり、法令上に娼妓の自由を確保するに到らしめた當時の警視廰第二課長松井茂博士並に多年この運動に盡し來れる山室軍平氏の三恩人を來る二十三日午後五時より青山會館に招き歓迎晩餐會を開く事になつた、尚その會の後同所に午後七時右三氏および高島米峰氏の演説會を開き公娼制度撤廢を叫ぶことになった」

⇒1926年5月中旬の宣教師・モルフィの再来日を契機として、彼と同じく「娼妓の自由廃業運動」「廃娼運動」に力を尽くしてきた「松井茂」と「山室軍平」を、7月23日午後5時より青山会館に招いて、歓迎晩餐会を開くことになった模様を伝える記事。この会では午後7時から、モルフィ、松井茂、山室軍平の三人(記事の言葉を使えば「廢娼運動の三恩人」)及び高嶋米峰による、公娼制度撤廃に関する演説が行なわれることになっている。
 記事中の「モルフィ」とは、ユリシース・グランド・モルフィという名のアメリカの宣教師で、1893年に初来日をし、日本のメソジスト教会で活躍した。しかし、1908年に胸の病を患って帰米する。1926年の再来朝ということは、約20年ぶりの日本であったということができる。
 記事中にもあるように、モルフィは1900年から名古屋にて廃娼運動を開始・展開して、娼妓の自由廃業の端緒を開いた人物である。まさに、「廢娼運動の三恩人」と呼ばれるにふさわしい。

 松井茂は、明治から昭和前期に活躍した内務官僚。警視庁第一部長時代に日比谷焼打事件の鎮圧指揮をしたことで知られる。また、救助はしご車・救急自動車の導入や警察法の立法に努め、その関連で(上記にもあるように)「娼妓取締規則の発布」にも奔走した。

 

*松井茂関連書籍:警察の社会史 (岩波新書)

         歴代閣僚と国会議員名鑑 (1978年)

 メソジスト関連書籍:日本メソヂスト教会史研究

学究:徳富蘇峰(56)関連史料[55]

前回同様、朝日新聞掲載分から確認していきたいと思います。

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81.1909年(明治42年) 8月 17日 「●臼井横井二氏の服役」

全文引用↓

「臼井哲夫、横井時雄の二氏は昨日午前九時三十分控訴院檢事局に出頭し石井書記より執行を受け同十時囚人室に入り此處にて見送りの安達謙藏、徳富猪一郎、安部充家其他諸氏に告別し東京監獄に護送されたり兩人の滿期出獄は臼井氏は來年六月十五日横井氏は來年一月十五日なり」

⇒臼井哲夫と横井時雄の二人が、1909年8月16日午前9時30分に「控訴院検事局」に出頭し、囚人室を経て、東京監獄に護送された模様を伝えた記事。各々の満期出獄は、臼井の方が1910年6月15日、横井の方が1910年1月15日となっている。

 私は以前「学究:徳富蘇峰(50)関連史料[49] - 学究ブログ(思想好きのぬたば)」内において、臼井及び横井が罪に問われた、「日本製糖汚職事件(「輸入原料砂糖戻税」という期限つき法律の期限延長を求めて、有力衆議院議員への贈賄が行われていた事件)」について触れた。その時取り上げた記事の時点(1909年(明治42年) 5月 7日)で、横井は監獄に収監されていることになっていたため、今回の記事(1909年(明治42年) 8月 17日)が伝えている情報との間に齟齬が生じているように見える。おそらく、「日本製糖汚職事件」が発覚されたことで横井が「拘禁」時点では、東京監獄とは別の施設に「収監」されていたのではないかと推測できる。そして、改めて石井書記による執行後に「東京監獄」に「収監」されるに至った。
 臼井・横井の見送りにきている「安達謙藏」は、明治から昭和前期に活躍した政治家。三浦梧楼指導の閔妃暗殺事件に協力し連座した過去をもち、第7回総選挙で初当選後、14回連続当選を果たした。これに加え、第12回総選挙で立憲同志会の選挙長に就任し、党を大勝させたことから、徳富蘇峰から「選挙の神様」と評される。(邦字新聞『朝鮮時報』や諺文(げんぶん、ハングルのこと)新聞『漢城新報』の発行者としても知られている。)

 

*安達謙蔵関連書籍:昭和の政党 (岩波現代文庫)

          日本近代史 (ちくま新書)

          政友会と民政党 - 戦前の二大政党制に何を学ぶか (中公新書)

          昭和戦前期の政党政治―二大政党制はなぜ挫折したのか (ちくま新書)

          

学究:高嶋米峰(55)関連史料[54]

前回同様、朝日新聞掲載分から確認していきたいと思います。

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70.1926年(大正15年) 6月 9日 「後任市長にはかういふ人物を 新市長に期待する事業 本紙に寄せた各方面の意見」

一部引用↓

「一、後任市長に何人を希望するか 二、後任市長にどんなことを望むか」
「一、遺憾ながら憲政會系が絶對多數を擁してゐる以上は市政安定のため思ふべからざるを忍んで憲政會系の相當な人物で我慢する
 二、この市長が市政の政黨化を打破してくれればそれだけで大功績であつて切に望む、この外文化的施設などいろいろ希望は多いがそれは貧乏な市には望めまい、至誠もつて市民のため働いてもらひたい」

⇒「1924年大正13年)10月8日から1926年(大正15年)6月8日まで市長を務めた中村是公に代って、次に市長となる人物に何を望むのか」を有識者に訊ね、その返答を纏めた記事。高嶋米峰はたびたび、新聞で以上のようなアンケートに答えているが、ここから彼が一程度の知識人・有識者として認知されていたことが分かる。

 中村是公(なかむらよしこと)は、明治から大正期にかけて活躍した官吏。満鉄総裁・後藤新平に起用され副総裁となったことで知られ、後に、満鉄総裁となった。その他には、勅選貴族院議員、鉄道院副総裁/総裁、東京市長などを務めた。また、第一高等中学校時代には、同級の作家・夏目漱石と親交を深めた。(中村は、官僚出身としては珍しい豪放磊落な性格であったことから、「フロックコートを着た猪」という異名をとったらしい…面白い。)

 高嶋が後任市長に望むことは、「議会運営の安定のための憲政会系の人物」「市政の政党化の打破を試みる人物」とある。高嶋は、政治が一部の政党に偏って運営されていることに消極的であったようである。また、後任市長には、文化的施設の設置にも力を注いでほしいと語っている。記事中に「貧乏な市」とあるのは、1923年(大正12年)9月1日に発生した関東大震災による被害が背景にある(関東大震災時に市長であった永田秀次郎については、「学究:高嶋米峰(51)関連史料[50] - 学究ブログ(思想好きのぬたば)」を参照)。

 ちなみに中村是公の次に東京市長となったのは「伊沢多喜男」(いさわたきお)で、非政友会系政党の支持者であったため、高嶋の「望み」は一応実ったことになる。

 

中村是公関連書籍:日本近現代人物履歴事典 第2版

          後藤新平: 大震災と帝都復興 (ちくま新書)

          満鉄総裁中村是公と漱石

          漱石『満韓ところどころ』を読む (季刊文科コレクション)

 伊沢多喜男関連書籍:伊沢多喜男と近代日本

学究:徳富蘇峰(55)関連史料[54]

前回同様、朝日新聞掲載分から確認していきたいと思います。

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80.1909年(明治42年) 7月 27日 「別荘に於ける貴婦人(四) 徳富久子刀自」

全文引用↓

「有名な蘇峰猪一郎先生、蘆花健二郎先生のお母様でもう十年から逗子富士見橋の前に御住ひでゐらつしやる
田越川の流れを前に受け大きな松を御門の左にした御閑居!!
蘇峰先生の御兩親は御羨ましい程の御高齢、お父様は此春米の御祝ひを遊ばしお母様は八十一歳でゐらつしやるんですもの大概の方なら息子さんの榮達を鼻にかけて先づ人を眼下に見下すのが常で御座いませうのに刀自は少しも誇りと云ふものを御見せにならない餘程訓練された御方の様に御見上げ申して敬服致しました
「もう老年の事ですから何にも御話しするやうな事は御座いませんが、ただ人様の入らしつて下さるのを好みます、御出で下すつて御寛ぎ下すつたり御保養して行つて下さるのを何より喜びますよ、最初はな東京の方に倅と一つに居りましたが彼地に永く居ると身體の爲に惡いからと申してお醫者の注意も御座いましたものですから、西洋に参ります前の年に。
こんな小屋を建てヽくれましてな……只今はもう何もかも倅の世話にばかりなつて居ります」
私は御兄弟の事を考へて不意と蘇東 蘇頴濱に思ひ及ぼしました
刀自は幸福な人でゐらつしやるがこヽに悲しいのは御兄弟の姉君のもう未亡人で切り下げに遊ばしてゐらつしやるのがいかにもまめまめしく老刀自に御事へ遊ばしてゐらつしやる光景で御座います
人間の心も色々になるもので御座いますよ、此地へ來たてには何でも無暗と片端から草花や何かを植込んだもので御座いますので御覧の通り塵塚同様の有様になつて畢つたのを、只今では何から除うと申てはマゴマゴして居るのでしてなア」
少しも隔ての無い老刀自の御様子、伺つたばかりで大滿足で御座いました、桔梗の美しく咲いてゐる御庭を左に緣側から御玄關に出まして御暇の挨拶を致しましたら
「此御暑さに貴女は能く御働きでゐらつしやいます」
と溢れるやうに同情して下さいましたわたくしは大變な慰藉を頂いて。愈勇氣が出たので御座います(或る女)」

徳富蘇峰徳冨蘆花の母親である「徳富久子」について書かれた記事。記事中で「徳富久子」に話を伺ったり、それに関するコメントを添えているのは「或る女」であると文末にある。

 逗子富士見橋の前に住んでいる徳富久子とは一体どのような人物なのか。

 久子の夫(徳富一敬)は「此春米の御祝ひ」とあるため88歳、久子は81歳である。息子2人が、言論界で知らない者はいない人物になっていることについて、とくに自慢することはない。もともとは息子と東京で暮していたが、いまは健康への配慮から息子が建てさせた家に住んでいる。現在の久子の心配事は、蘇峰・蘆花の姉にあたる娘が未亡人となったことである。(記事には書かれていないが、徳富久子は妹の矢嶋楫子の日本基督教婦人矯風会の仕事を助けたことでも知られている。)

 ちなみに、徳富一敬(とくとみかずたか/いっけい)は幕末から明治期に活躍した漢学者。横井小楠から教えを請う。熊本藩庁での勤務を経た後、私立中学共立学舎や大江義塾で漢学の指導を行った。

 

*矢嶋楫子関連書籍:われ弱ければ―矢嶋楫子伝 (小学館文庫)

          矢嶋楫子の生涯と時代の流れ (熊日新書)

学究:高嶋米峰(54)関連史料[53]

前回同様、朝日新聞掲載分から確認していきたいと思います。

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69.1926年(大正15年) 4月 2日 「今週のアサヒグラフが出ました」

全文引用↓

「♢旋風―連作長篇小説第四回は斷髪美人―高島米峰 さし繪―北澤樂天 ♢日本の自轉車文化―街上の曲藝百惡♢二見ヶ浦の澄宮さま♢各宮殿下のお集り♢怪獣(西洋名彫刻)♢内外ニュース♢戀愛病患者・親爺教育・家庭漫畫
 お早くお求め下さい 一部十五錢 月極五十五錢」

⇒『アサヒグラフ』の宣伝文。ここでは、高嶋米峰の小説「断髪美人」が連作長篇の第四回目として掲載されることが伝えられている。評論文やエッセイを主に書く高嶋としては珍しい。小説の挿絵は北澤楽天が担当。北澤については「さいたま市/北沢楽天物語」の記述が参考になるので、以下に引用する。

 

 北沢楽天は、明治9(1876)年、大宮宿の旧家・北沢家の四男として東京 神田に生まれました。本名は保次(やすじ)といいます。
 小さい頃から絵を描くことが好きな楽天は、19才のときに外国人向けの英字新聞を発行する「ボックス・オブ・キュリオス社」に入社し、オーストラリア人の漫画家フランク・A・ナンキベルから西洋漫画を学び、漫画を描くようになりました。

 23才の楽天は、福沢諭吉が創刊した新聞「時事新報」を発行する時事新報社に入社します。
 新聞記事を分かりやすく伝えるため、絵画部員として新聞に絵を描きました。特に楽天が描く「時事漫画」コーナーは大人気で、当時「ポンチ絵」や「おどけ絵」と呼ばれ評価の低かった風刺画を、きちんとした絵と内容で大人から子供まで楽しめる「漫画」へと発展させました。

 楽天は29才の時、日本初のカラー漫画雑誌「東京パック」に漫画を描きました。政治、社会の問題、文化などいろいろな話題を取りあげておもしろい漫画にしたところ、大反響を呼び、大勢の人々が楽天の漫画を楽しみました。
 楽天は、近代日本漫画のルーツにあたる重要な漫画家のひとりであり、漫画を職業として成功した人といわれています。

 昭和4年から5年頃、楽天は53才で当時まだ珍しかった欧州周遊旅行に出かけました。楽天は定期的に旅先から漫画旅行記の原稿を日本に送り、「時事漫画」の連載を続けました。当時まだ珍しかった外国の様子をカラーで描いた楽天の漫画は多くの人の目を楽しませました。
パリの美術展で楽天の絵が評価され、フランス政府から勲章を受けました。

 楽天は、弟子を育てることも熱心で、時事新報社を退職すると自宅を「三光漫画スタヂオ」として弟子たちの活動のために提供し、若者たちを温かく見守り、支援を惜しみませんでした。
今、みなさんが目にしている新聞や雑誌の「漫画」は、もとをたどると楽天の漫画に通じます。楽天の漫画から影響を受けた現代の漫画家たちもたくさんいました。

 72才になり、楽天は先祖代々の土地である大宮に「楽天居」を構え、好きな日本画を描いて悠々自適な生活をおくりました。ですが、79歳で病気のため突然世を去ってしまいます。
 楽天の亡くなったあと、市は楽天を名誉市民第1号として名を残し、楽天のすばらしさを伝えようとしました。
それから、遺族が楽天の作品や愛用品、住んでいた「楽天居」の敷地もすべて、当時の大宮市に寄付してくれました。
 「これからの漫画のために役立ててください」という夫人や弟子たちの希望と努力が実り、楽天居の跡地に「漫画会館」が誕生したのです。

 記事中にある「二見ヶ浦の澄宮さま」とは、「三笠宮崇仁親王」(みかさのみや たかひとしんのう)のことで、大正天皇の第4皇子。第二次世界大戦中は支那派遣軍参謀などを務め、戦後になると東京大学史学科で学び、古代オリエント史を研究した。また、歴史学の学問姿勢から、紀元節復活の動きに「史実性」に対する疑問から反対を表明した。このことで、里見岸雄野依秀市らから批判を浴び、「赤い宮様」と渾名されるに至る。

 

北澤楽天関連書籍:マンガ誕生―大正デモクラシーからの出発 (歴史文化ライブラリー)

          美術フォーラム21 第24号 特集:漫画とマンガ、そして芸術

 里見岸雄関連書籍:普及版 天皇とプロレタリア

          万世一系の天皇―主として国体学的考察

学究:徳富蘇峰(54)関連史料[53]

前回同様、朝日新聞掲載分から確認していきたいと思います。

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79.1909年(明治42年) 6月 1日 「世界見物 藪野椋十(卅四)他生の緣 車中の友達― 煙草の交はり―無言の友―日本の猫の數―穴のある錢―漱石型と蘇峰型」

全文引用↓

「汽車の中で大分友達が出來た、其内に直接に出來た無言の友と、通辯は介まつたのとの區別がある、喫煙室で何時もよく隣に座りあはせる老爺がある。鼻柱の二段曲つて今一曲り曲りかヽつた處を生憎終ひに爲つた様なむづかしい格好の鼻と俺は見て居るが、先方では又俺の事を鼻の小さい――はなといふより蕾の老爺と思うとるぢやらう。何遍目からか雙方目禮しあふ様になつた。何とか話しかけられたこともあつたが、俺からは話しかけぬ、其處は俺が眼が高いのぢや、先方は俺を英語を話す人と買ひ被つたのぢやらうが、俺は先方が迚も日本語の話せぬものと一目に見極めて了つたのぢや。尤も近來俺も中々英語が話せるし日進の勢ひで文字は數の有らん限り覺して了つたし(たツた廿六字しか無いのだけれど)言葉數も無慮百餘りも使へる様に爲つて居るし、準備して來た中等教科書に依つて歐米の地理歴史の大要も腹に入れて、略治亂興廢の跡を知り、外國にも古へより仁義道徳の道あることや、忠魂義膽も強ち日本軍人の一手物で○無い事まで看て取つて居る一角の西洋通であるから、彼の老爺さんが買被るも無理ではないが、實の處英語ばかりで話すにはちと不足ぢや。ぢやから、已むを得ざるに出ざれば我の短を以て彼の長に對ふことはせぬ。古へより財を以て彼の長に對ふことはせぬ。古へより財を以て交はる者もあれば酒食を以て交はる者もある。道を同くして交はるもあれば、癖が似てるで交はるもある。
俺と彼の二段曲り半の鼻の老爺とは煙草で近き、眼色で親み、交らなくて交はつて居るのである。彼の指は俺のより倍太い、俺のが土を掘つたのであれば、彼の働いて來て餘計金溜めた爺に違ひない、面の皮も慾の皮も俺のより好く鍛へてありさうな、話させたら聞いたばかりで何がしか得のいく様なキビキビとした金蓄談をするであらうもの。
苔野が通辯で出來た友達には、早速に損をさせられる。「叔父さん、何か此の少年にやる者は有りませんか、日本の貨幣でもあれば見慣れぬから喜びますよ」といふ。貨幣ならば見慣れたつて貰へば喜ぶに相違ない、何も少年に限つたことは無い、併し末の子に似た年輩と思へば可愛くもあるから、一錢銅貨をやつた。苔野が通辯で此の少年はなかなか饒舌る。
 「叔父さん、世界廻るんだつてネ、面白いでせう、色々な動物が居て……あの日本に猫が居ますか。
 「居りますとも。
 「鳴きますか。
 「それは鳴きますとも。
 「何と言つて鳴くの、叔父さん。
 「ニヤゴニヤゴ(と鳴聲をまねてきかせると子供は大喜び)
 「面白い鳴き聲だ、そして其は大きいでせう。
 「子猫は小さい、親猫は大きいな。
 「どの位。
 「困つたな。まづ此の位(と手真似をして見せる)
 「そんなに、大きいの、そして其んなのが何匹居るの、日本には。
俺にも苔野にも到底解らんことに爲つた。先方が成人なれば直に亞米利加の鼠の數でも訊いてやるけれども子供では喧嘩にならぬ、こちらが大負ぢや、はヽヽヽ。
其れから子供の親が先刻の銅貨の御禮をいふ。一處に來た其友達と來て共に色々の貨幣の談に渉つて巾着から卅種許りの金銀銅貨を出した、其中に乾隆通寶が一枚ある、我等の眼には何ともないが卅餘種の中では目立て見したる、持主は四角な孔が變だ、孔が圓いのが便利だらうと言ふ、苔野が成程と感心して居るから、俺は急に「其感心は取消せ取消せ、そもそも錢は天は圓く地は方なりとの象徴で深い意味のあることぢやと言へば、苔野は「駄目ですよいくら象どつてばかりあつたつて、現在見た眼に面白くなく使ふに便利でなくては誰も感心しませんから」
食堂車で苔野が屡俺の袂を牽いて注意した人物が有つた、後に聞けば苔野が崇拝する兩先生にそつくりといふ事だ、一人は漱石先生に痘痕の無いばかりで額から眼、鼻、髯の撥ね具合寸分違はぬといふ、娘の子二人を伴れて一の食卓を圍んで默つたきりで食事を濟ませた。今一人は半白の男で年下の男と差向ひ、盛んに饒舌りもすれば喫べもする忙しい間に、やれ、忘れて居たと大急ぎに眼をしばたたく、其時の小鼻と鼻の孔の格好が蘇峰先生に彷彿ぢやげな。」

⇒藪野椋十(やぶのむくじゅう、別名・渋川玄耳(しぶかわげんじ))の世界見聞記の中の一話である。一記事として、大変長文であるため、段落ごとに簡単な纏めを行なう。

 一段落目では、著者が長い汽車旅行の中で経験した「友達づくり」のエピソードが記されている。著者は日本人であるため、英語の能力が十分だとは言えず、一方汽車の中で出会う人は日本語が話せない。このように言語の壁があるときであっても、言語以外の方法で交友を結ぶことはできると、藪野は語っている。その具体例が、二段落目で示される。

 著者が汽車内で出会ったある老人とは、互いに「煙草」を好むということで近付き、言語的コミュニケーションはなくとも、目で挨拶を交わす。著者は相手からの自己紹介を聞かないままに、容貌などから性格を予想している。

 三段落目では、藪野(と彼の旅仲間・苔野)が汽車の中で出会った子どもとの「猫」に関する会話が紹介されている。へたに通辯(通訳)がうまく交わされたりすると、あまりいいことには繫がらないと、藪野は主張したいようだ(記事中では、一銭銅貨をあげる/猫の話を長々することになった)。

 四段落目では、三段落目での「一銭銅貨」の話が派生して、「乾隆通寶」に関する議論が展開している。議論の中身は「どうして、乾隆通寶の孔は四角いのだろう?」であった。

 五段落目では、旅仲間・苔野が汽車の中に発見した「夏目漱石」と「徳富蘇峰」のそっくりさんの様子が記されている。これがもし本物であったら……面白い。

 最後に、この記事の執筆者である藪野椋十について。藪野は、主に「渋川玄耳」の名で、明治期を中心に活躍したジャーナリストで、フリージャーナリストの先駆けとも言われる。陸軍法務官として熊本県に在住していた際、夏目漱石主宰の俳句結社紫溟吟社に参加し、機関紙『銀杏』を創刊。熊本の俳句文化に大きな影響を与えた。また、日露戦争時に従軍法務官として満州に出征した際、弓削田精一(東京朝日新聞特派員)と親しくなり、『従軍三年』を出版、さらに弓削田の推薦で池辺三山主筆(熊本出身)に請われ、東京朝日新聞に入社した。「辣腕社会部長」として活躍する。(夏目漱石石川啄木を東京朝日新聞で繫げたのも藪野の働きかけによる。『一握の砂』の序文は、藪野椋十により執筆される)。1912年11月に東京朝日新聞を退社後は、フリーランスとなった。

 

渋川玄耳関連書籍:佐賀この地この人 (1985年)

          玄耳と猫と漱石と

          評伝 渋川玄耳

 池辺三山関連書籍:文学者の日記〈1〉池辺三山(1) (日本近代文学館資料叢書)

          文学者の日記〈2〉池辺三山(2) (日本近代文学館資料叢書 第1期)

          文学者の日記〈3〉池辺三山(3) (日本近代文学館資料叢書 第1期)

学究:高嶋米峰(53)関連史料[52]

前回同様、朝日新聞掲載分から確認していきたいと思います。

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68.1926年(大正15年) 3月 10日 「世相は動く 成年とは何歳か 娼妓取締規則の改正に就て【下】 高島米峰

全文引用↓

「二種ならまだしもだが、二種でとどまらないから、ますます疑問が大きくなる。それは、日本には娼妓取締規則といふものがあつて……實に世界の汚辱だ……十八歳以上の女性は、娼妓として、人肉に市を展開することが出來ることになつて居る。そこで、日本の政府は、この娼妓取締規則維持のために、千九百二十一年九月三十日の、婦人兒童の賣買禁止に關する國際條約に對し、その最終議定書(ロ)項に規定せられた、年齢制限二十一歳といふのを、十八歳にして置いて欲しいといふことを通告したのである。(この國際條約に留保條件を付したのは、世界中に日本とシヤムとだけである。)
 それもよいとして、何故に、かかる留保條件を付したかといふ理由の一つとして日本の女性は、滿十八歳にして身心共に發育が十分だからといふのである。身心の發育が十分だといふのは、人間としての、能力を備へて居るといふことである。民法では滿二十歳で一人前の人間として認められない日本の女性も、娼妓取締規則だけでは、滿十八歳で、一人前の人間として認められるといふのである。誠に光榮の至りではないか。
 そこで、くどいやうだが、吾々の實際生活の上では、男性は、二十歳も成年だ、三十歳も成年だといふことになり女性は十八歳も成年だ、二十歳も成年だ、そして、何歳になつても成年とは言へないといふ妙なことになる。
 拙者の愚問の要點はこれだ。
 成程なア。
 理屈はいろいろあらうが、兎も角、成年が幾種類もあるといふのは、變なものだ。と言つて、すべてを現行娼妓取締規則に準じて、男女とも、滿十八歳を以て、成年とする譯にはゆかない。結局、民法の、滿二十歳を以て成年とするといふのに、統一するより外はあるまい。但し婦人賣買の如き人道上の問題は、必ずしも、成年未成年を以て、論ずべきではない。それは絶對禁止を理想とすべきであつて、世界がさしあたり、廿一歳とするとならば、日本もまた當然廿一歳とすべきこと、もとより言ふまでもない。
 かくて、二十歳台の代議士……男のも女のも……が、議場に少からずイスを占め得るやうになつたら、どんなにか、帝國議會といふものが、浄化せられることであらう。(大正一五、二、二八)」

 ⇒この記事は、前回のブログ(⇒学究:高嶋米峰(52)関連史料[51] - 学究ブログ(思想好きのぬたば))で紹介した記事(1926年(大正15年) 3月 9日 「世相は動く 成年とは何歳か 娼妓取締規則の改正に就て【上】 高島米峰」)の続きである。まだお読みでない方は、ぜひ前回のブログを確認してみてください。

 記事の冒頭にある「二種」とは何か?。それは「成年」を規定する法律2つのことである。その「法律2つ」とは、民法普通選挙法(高嶋米峰は「不通選挙法」とよぶ)。高嶋は上記の二法律に加えて、「成年」の定義を曖昧にする法律として、18歳から女性を娼妓として働かせることができる「娼妓取締規則」を取り上げて、批判を加えている。「日本は「婦人児童の売買禁止に関する国際条約」に定められた年齢制限21歳を、自国の「娼妓取締規則」の年齢制限18歳に合わせるために、留保条件を示した国である」⇒この事実には驚かされる。

 上記の留保条件を、なぜ日本政府は提出したのか?。政府は、女性は満18歳になれば身心ともに発育が十分になるから、と見解を示す。これに対して高嶋は、民法では満20歳で一人前の人間(成年)とされるのに、娼妓取締規則だけでは満18歳と規定されているのはどういうことか、と疑問を呈している。

 以上の事から日本では、「成年」を規定する年齢が、満20歳、満25歳、満18歳……と定まっていないといえる。

 高嶋は、「成年」を考える上では民法における満20歳を採用し、満18歳という規定を示す「娼妓取締規則」については、そもそも「婦人売買」という行為自体に問題があるのではないかという疑問を前提に、せめて国際規定の「満21歳」を護るべきだと主張する。そして最後に、「帝国議会」に若き男女の代議士の姿が見られるようになることを願い、本稿は閉じられている。

 

*「児童売買」関連書籍:世界商品と子供の奴隷―多国籍企業と児童強制労働

 帝国議会関連書籍:帝国議会―西洋の衝撃から誕生までの格闘 (中公新書)

          全国政治の始動: 帝国議会開設後の明治国家