学究:高嶋米峰(54)関連史料[53]

前回同様、朝日新聞掲載分から確認していきたいと思います。

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69.1926年(大正15年) 4月 2日 「今週のアサヒグラフが出ました」

全文引用↓

「♢旋風―連作長篇小説第四回は斷髪美人―高島米峰 さし繪―北澤樂天 ♢日本の自轉車文化―街上の曲藝百惡♢二見ヶ浦の澄宮さま♢各宮殿下のお集り♢怪獣(西洋名彫刻)♢内外ニュース♢戀愛病患者・親爺教育・家庭漫畫
 お早くお求め下さい 一部十五錢 月極五十五錢」

⇒『アサヒグラフ』の宣伝文。ここでは、高嶋米峰の小説「断髪美人」が連作長篇の第四回目として掲載されることが伝えられている。評論文やエッセイを主に書く高嶋としては珍しい。小説の挿絵は北澤楽天が担当。北澤については「さいたま市/北沢楽天物語」の記述が参考になるので、以下に引用する。

 

 北沢楽天は、明治9(1876)年、大宮宿の旧家・北沢家の四男として東京 神田に生まれました。本名は保次(やすじ)といいます。
 小さい頃から絵を描くことが好きな楽天は、19才のときに外国人向けの英字新聞を発行する「ボックス・オブ・キュリオス社」に入社し、オーストラリア人の漫画家フランク・A・ナンキベルから西洋漫画を学び、漫画を描くようになりました。

 23才の楽天は、福沢諭吉が創刊した新聞「時事新報」を発行する時事新報社に入社します。
 新聞記事を分かりやすく伝えるため、絵画部員として新聞に絵を描きました。特に楽天が描く「時事漫画」コーナーは大人気で、当時「ポンチ絵」や「おどけ絵」と呼ばれ評価の低かった風刺画を、きちんとした絵と内容で大人から子供まで楽しめる「漫画」へと発展させました。

 楽天は29才の時、日本初のカラー漫画雑誌「東京パック」に漫画を描きました。政治、社会の問題、文化などいろいろな話題を取りあげておもしろい漫画にしたところ、大反響を呼び、大勢の人々が楽天の漫画を楽しみました。
 楽天は、近代日本漫画のルーツにあたる重要な漫画家のひとりであり、漫画を職業として成功した人といわれています。

 昭和4年から5年頃、楽天は53才で当時まだ珍しかった欧州周遊旅行に出かけました。楽天は定期的に旅先から漫画旅行記の原稿を日本に送り、「時事漫画」の連載を続けました。当時まだ珍しかった外国の様子をカラーで描いた楽天の漫画は多くの人の目を楽しませました。
パリの美術展で楽天の絵が評価され、フランス政府から勲章を受けました。

 楽天は、弟子を育てることも熱心で、時事新報社を退職すると自宅を「三光漫画スタヂオ」として弟子たちの活動のために提供し、若者たちを温かく見守り、支援を惜しみませんでした。
今、みなさんが目にしている新聞や雑誌の「漫画」は、もとをたどると楽天の漫画に通じます。楽天の漫画から影響を受けた現代の漫画家たちもたくさんいました。

 72才になり、楽天は先祖代々の土地である大宮に「楽天居」を構え、好きな日本画を描いて悠々自適な生活をおくりました。ですが、79歳で病気のため突然世を去ってしまいます。
 楽天の亡くなったあと、市は楽天を名誉市民第1号として名を残し、楽天のすばらしさを伝えようとしました。
それから、遺族が楽天の作品や愛用品、住んでいた「楽天居」の敷地もすべて、当時の大宮市に寄付してくれました。
 「これからの漫画のために役立ててください」という夫人や弟子たちの希望と努力が実り、楽天居の跡地に「漫画会館」が誕生したのです。

 記事中にある「二見ヶ浦の澄宮さま」とは、「三笠宮崇仁親王」(みかさのみや たかひとしんのう)のことで、大正天皇の第4皇子。第二次世界大戦中は支那派遣軍参謀などを務め、戦後になると東京大学史学科で学び、古代オリエント史を研究した。また、歴史学の学問姿勢から、紀元節復活の動きに「史実性」に対する疑問から反対を表明した。このことで、里見岸雄野依秀市らから批判を浴び、「赤い宮様」と渾名されるに至る。

 

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