学究:高嶋米峰(55)関連史料[54]

前回同様、朝日新聞掲載分から確認していきたいと思います。

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70.1926年(大正15年) 6月 9日 「後任市長にはかういふ人物を 新市長に期待する事業 本紙に寄せた各方面の意見」

一部引用↓

「一、後任市長に何人を希望するか 二、後任市長にどんなことを望むか」
「一、遺憾ながら憲政會系が絶對多數を擁してゐる以上は市政安定のため思ふべからざるを忍んで憲政會系の相當な人物で我慢する
 二、この市長が市政の政黨化を打破してくれればそれだけで大功績であつて切に望む、この外文化的施設などいろいろ希望は多いがそれは貧乏な市には望めまい、至誠もつて市民のため働いてもらひたい」

⇒「1924年大正13年)10月8日から1926年(大正15年)6月8日まで市長を務めた中村是公に代って、次に市長となる人物に何を望むのか」を有識者に訊ね、その返答を纏めた記事。高嶋米峰はたびたび、新聞で以上のようなアンケートに答えているが、ここから彼が一程度の知識人・有識者として認知されていたことが分かる。

 中村是公(なかむらよしこと)は、明治から大正期にかけて活躍した官吏。満鉄総裁・後藤新平に起用され副総裁となったことで知られ、後に、満鉄総裁となった。その他には、勅選貴族院議員、鉄道院副総裁/総裁、東京市長などを務めた。また、第一高等中学校時代には、同級の作家・夏目漱石と親交を深めた。(中村は、官僚出身としては珍しい豪放磊落な性格であったことから、「フロックコートを着た猪」という異名をとったらしい…面白い。)

 高嶋が後任市長に望むことは、「議会運営の安定のための憲政会系の人物」「市政の政党化の打破を試みる人物」とある。高嶋は、政治が一部の政党に偏って運営されていることに消極的であったようである。また、後任市長には、文化的施設の設置にも力を注いでほしいと語っている。記事中に「貧乏な市」とあるのは、1923年(大正12年)9月1日に発生した関東大震災による被害が背景にある(関東大震災時に市長であった永田秀次郎については、「学究:高嶋米峰(51)関連史料[50] - 学究ブログ(思想好きのぬたば)」を参照)。

 ちなみに中村是公の次に東京市長となったのは「伊沢多喜男」(いさわたきお)で、非政友会系政党の支持者であったため、高嶋の「望み」は一応実ったことになる。

 

中村是公関連書籍:日本近現代人物履歴事典 第2版

          後藤新平: 大震災と帝都復興 (ちくま新書)

          満鉄総裁中村是公と漱石

          漱石『満韓ところどころ』を読む (季刊文科コレクション)

 伊沢多喜男関連書籍:伊沢多喜男と近代日本