学究:徳富蘇峰(55)関連史料[54]

前回同様、朝日新聞掲載分から確認していきたいと思います。

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80.1909年(明治42年) 7月 27日 「別荘に於ける貴婦人(四) 徳富久子刀自」

全文引用↓

「有名な蘇峰猪一郎先生、蘆花健二郎先生のお母様でもう十年から逗子富士見橋の前に御住ひでゐらつしやる
田越川の流れを前に受け大きな松を御門の左にした御閑居!!
蘇峰先生の御兩親は御羨ましい程の御高齢、お父様は此春米の御祝ひを遊ばしお母様は八十一歳でゐらつしやるんですもの大概の方なら息子さんの榮達を鼻にかけて先づ人を眼下に見下すのが常で御座いませうのに刀自は少しも誇りと云ふものを御見せにならない餘程訓練された御方の様に御見上げ申して敬服致しました
「もう老年の事ですから何にも御話しするやうな事は御座いませんが、ただ人様の入らしつて下さるのを好みます、御出で下すつて御寛ぎ下すつたり御保養して行つて下さるのを何より喜びますよ、最初はな東京の方に倅と一つに居りましたが彼地に永く居ると身體の爲に惡いからと申してお醫者の注意も御座いましたものですから、西洋に参ります前の年に。
こんな小屋を建てヽくれましてな……只今はもう何もかも倅の世話にばかりなつて居ります」
私は御兄弟の事を考へて不意と蘇東 蘇頴濱に思ひ及ぼしました
刀自は幸福な人でゐらつしやるがこヽに悲しいのは御兄弟の姉君のもう未亡人で切り下げに遊ばしてゐらつしやるのがいかにもまめまめしく老刀自に御事へ遊ばしてゐらつしやる光景で御座います
人間の心も色々になるもので御座いますよ、此地へ來たてには何でも無暗と片端から草花や何かを植込んだもので御座いますので御覧の通り塵塚同様の有様になつて畢つたのを、只今では何から除うと申てはマゴマゴして居るのでしてなア」
少しも隔ての無い老刀自の御様子、伺つたばかりで大滿足で御座いました、桔梗の美しく咲いてゐる御庭を左に緣側から御玄關に出まして御暇の挨拶を致しましたら
「此御暑さに貴女は能く御働きでゐらつしやいます」
と溢れるやうに同情して下さいましたわたくしは大變な慰藉を頂いて。愈勇氣が出たので御座います(或る女)」

徳富蘇峰徳冨蘆花の母親である「徳富久子」について書かれた記事。記事中で「徳富久子」に話を伺ったり、それに関するコメントを添えているのは「或る女」であると文末にある。

 逗子富士見橋の前に住んでいる徳富久子とは一体どのような人物なのか。

 久子の夫(徳富一敬)は「此春米の御祝ひ」とあるため88歳、久子は81歳である。息子2人が、言論界で知らない者はいない人物になっていることについて、とくに自慢することはない。もともとは息子と東京で暮していたが、いまは健康への配慮から息子が建てさせた家に住んでいる。現在の久子の心配事は、蘇峰・蘆花の姉にあたる娘が未亡人となったことである。(記事には書かれていないが、徳富久子は妹の矢嶋楫子の日本基督教婦人矯風会の仕事を助けたことでも知られている。)

 ちなみに、徳富一敬(とくとみかずたか/いっけい)は幕末から明治期に活躍した漢学者。横井小楠から教えを請う。熊本藩庁での勤務を経た後、私立中学共立学舎や大江義塾で漢学の指導を行った。

 

*矢嶋楫子関連書籍:われ弱ければ―矢嶋楫子伝 (小学館文庫)

          矢嶋楫子の生涯と時代の流れ (熊日新書)