学究:高嶋米峰(45)関連史料[44]

前回同様、朝日新聞掲載分から確認していきたいと思います。

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60.1925年(大正14年) 8月 19日 「學藝 緑蔭一話 同姓同名 内田魯庵

一部引用↓

高島米峰の本名はもと大圓であつた。處が同じ佛教界に同姓同名があつて紛らはしいので自ら譲下つて一字を削つて圓と稱した。夫でも矢張時々間違へられるので雅號の米峰と改稱した。(戸籍役場に届けたかドウか知らないが。)が、高島の姓が元來出來合ひだから同じ講演仲間の高島平三郎としばしば混同される。ある時地方へ招聘されて停車場から直ぐ會場へ驅付けるとつじつじ其他の要所要所から會場の入口まで米峰高島平三郎先生講演と大々的にはり出されてるので面食つて了つたといふ奇談もある。もつとも米峰は口も八丁手も八丁だから二人前ぐらゐ勤めるのは何でも無い。」

⇒「高嶋米峰」の姓名に関する興味深いエピソード。

 高嶋の本名はもともと「高嶋大圓」であったが、仏教界に同じ「高嶋大圓」の名をもつ人物がいたため、自分が譲って「高嶋圓」と変えたが、それでも間違えられることが多々あったので雅号の「米峰」に改称した、というものである(戸籍上、「高嶋米峰」となっているかは不明)。

 以上の変遷を経れば、誰からも間違われることがなくなると考えた米峰であったが、そう簡単に解決はしなかった。今度は「高嶋」という苗字により、間違えられることになる。米峰がある地方へ講演に向った際、会場に「米峰高島平三郎」とでかでかと張り出されていたのである。この状況に米峰は「面食つて了つた」。記者は以上を踏まえて、米峰であれば人間違いされても「口も八丁手も八丁だから二人前ぐらゐ勤めるのは何でも無い」と締めくくっている。

 ちなみに「高島平三郎」については、かつて学究:高嶋米峰(35)関連史料[34] - 学究ブログ(思想好きのぬたば)の中で取り上げたことのある人物で、児童心理学者、東洋大学第13代学長(1944年11月から1945年7月の期間)を務めた人物。このブログ中で、高島平三郎の方も、高嶋米峰や片山國嘉と名前や顔貌で間違われることが多いと伝えられている。

 高嶋米峰と高島平三郎、苗字も同じで、顔も似ている。お互い大変である。

 

*高嶋米峰関連書籍:新仏教とは何であったか: 近代仏教改革のゆくえ

 高島平三郎関連書籍:高島平三郎著作集 (学術著作集ライブラリー)