学究:徳富蘇峰(42)関連史料[41]

前回同様、朝日新聞掲載分から確認していきたいと思います。

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67.1908年(明治41年) 11月 18日 「●ヘヂン博士の昨日(志賀矧川氏の午餐會)」

全文引用↓

「スヱン、ヘヂン博士は昨朝芝公園に遊び次で大倉邸の美術品を縦覧したるが六百年前西藏にて作られたる普賢菩薩の像を見るや直に其西藏の美術品たるを明言せしより何れも博士の烱眼に感じ合へり斯くて靈南坂なる志賀重昂氏の邸に入り徳富蘇峰、巖谷小波、跡見花蹊、リード博士、新渡戸博士夫人等十二名と共に日本食の晝餐を受けしが其能く箸を用ひ味噌汁を啜るは流石に大探檢家たるに恥ぢずと云ふべし博士は豫て約する所あることとて此折大隈伯より自動車を差向くべき旨電話ありしも博士は「其輕快は之に及ぶものなけれど雜沓の市街にては小兒を傷くることあるを奈何せん」と語りて自動車を辭し馬車に搭じて伯を訪ひ少時談話の後、早稻田大學に赴きて簡單なる講演をなし午後四時半より東京帝國大學にて前夜に續き中央亞細亞の探檢に關する講演をなせるが來聴者は各國の大公使を首め内外の貴紳及學生なりき」

⇒11月17日のスヱン・ヘヂン博士の動向の模様を示した記事。博士の氏名の表記については、スヴェン・ヘディンが現在では一般的で、19世紀後半から20世紀初めにかけて中央アジアを探検したスウェーデン出身の地理学者として知られる。ロシア皇帝ニコライ2世浄土真宗本願寺派第22世法主大谷光瑞の支援を受けて、探検活動を行った。

 ヘディンの日本巡りの内容を、以下に簡単に纏める。

①大倉邸で美術品を鑑賞(普賢菩薩像など)。

志賀重昂邸で、徳富蘇峰、巖谷小波、跡見花蹊、リード博士、新渡戸博士夫人ら12名と共に昼食(日本食)を食べる。箸を器用に使って、味噌汁を啜っていたようだ。

③市街で小さい子供に怪我を負わせる危険性を考慮して、自動車ではなく馬車を使って、大隈重信のもとへ。

早稲田大学で講演。

⑤東京帝大で講演。

 上記の内、跡見花蹊については、学祖・跡見花蹊 | 跡見学園の歩み | 跡見学園を参照。

 

*スヴェン・ヘディン関連書籍:大谷光瑞とスヴェン・ヘディン 内陸アジア探検と国際政治社会

               さまよえる湖 (中公文庫BIBLIO)

               文明の十字路=中央アジアの歴史 (講談社学術文庫)

 跡見花蹊関連書籍:跡見花蹊: 女子教育の先駆者