学究:徳富蘇峰(22)関連史料[21]

前回同様、朝日新聞掲載分から確認していきたいと思います。

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44.1904年(明治37年) 2月 15日 「●帝國ホテル大集會」

一部引用↓

「府下重なる實業家及び新聞雜誌記者諸氏の發企に成れる帝國ホテルの會合は昨十四日午後二時より開催せられ出席者は貴族院議員、各政黨有力者、京濱の重なる實業家及新聞記者等無慮二百五十餘名にて最初に發企者の一人大岡育造氏登壇し日露の交渉遂に破裂に至りしは甚だ悲しむべしと雖も開戦の第一着に於て我が海軍の勝利を得たるは我々の愉快とする所なり夫れに就き種々御相談致し度き事もありて諸君の御會合を煩らはしたるに御繁忙中にも拘はらず多數御來會ありしは滿足の次第なりと挨拶し同氏の指名にて田口卯吉氏を座長に押し島田三郎氏登壇して開會の辭を述べたり其要(以下、省略)」「實行委員 渡邊吉太郎 徳富猪一郎 大岡育造 田口卯吉 黑岩周六 陸實 朝比奈知泉 箕浦勝人 島田三郎 加藤正義 高橋是清 園田孝吉 朝吹英二 三崎○之助」

⇒帝国ホテルで行なわれた、実業家&新聞記者の手による集会(パーティ)の様子が描かれた記事。出席者には、政府関係者も確認できる。

 集会の発起人の一人である大岡育造の演説に注目する。大岡育造は、明治から大正期にかけて活躍した弁護士・政治家で、弁護士時代に「秩父事件」や「ノルマントン号事件」などを担当した。大岡は「日露の交渉遂に破裂に至り」や「開戦の第一着に於て我が海軍の勝利を得たるは我々の愉快とする所なり」など、1904年2月8日から始まった日露戦争について言及している。「愉快」という言葉から読み取れることは、この帝国ホテルでの集会が全体として「好戦ムード」であるということ。微塵も厭戦」や「非戦」の要素は掴めない。また大岡は、日露戦争に関連したことで出席者に相談事があるとも述べている。

 「渡邊吉太郎」は、坂本龍馬中岡慎太郎を殺害(近江屋事件)したことで知られる「渡邊吉太郎」とは別人。詳細は不明。

 「朝比奈知泉」は、『郵便報知新聞』『国民之友』『東京新報』『東京日日新聞』『万朝報』などの新聞・雑誌で活躍した記者。『東京日日新聞主筆時代に、明治27年(1894年)の条約改正問題、翌年の遼東還付問題(遼東還付条約)をめぐり、『日本』の陸羯南と論争したことは有名である。

 「箕浦勝人」(みのうらかつんど)は、郵便報知新聞社社長や逓信大臣(第2次大隈内閣時代)を務めた人物。

 「園田孝吉」は、大隅国太良村(現・鹿児島県伊佐市)の生まれ。ロンドン総領事や横浜正金銀行頭取などを務めた人物で、1923年9月の関東大震災で被害にあい、亡くなった。

 「朝吹英二」は、豊前国(現・大分県)生まれの実業家。三井合同会社理事長を務める。若き日は、広瀬淡窓により開かれた咸宜園(かんぎえん)などで学び(淡窓は1856年に没しているため、朝吹との直接的な接触は無い)、尊攘思想の影響から福沢諭吉暗殺計画を企てるが、のちに福沢から庇護を受ける関係になる。「学究ブログ」との関連でいえば、福沢諭吉の甥である「中上川彦次郎」とは、彼の妹・澄と結婚するため縁戚関係となる(詳しくは学究:徳富蘇峰(12)関連史料[11] - 学究ブログ(思想好きのぬたば)をチェック)。

 ちなみに「朝吹」という珍しい苗字で思い浮かべると、『きことわ』で芥川賞を受賞した「朝吹真理子」さんの名前が頭を過るが、「朝吹英二」からみて「朝吹真理子」さんは玄孫にあたる(その他にも、「朝吹」姓には、フランス文学者として知られる朝吹三吉朝吹登水子兄妹などがいる)。

 

*大岡育造関連書籍:日本人と英語 ――もうひとつの英語百年史

 秩父事件関連書籍:秩父事件―自由民権期の農民蜂起 (中公新書 (161))

 広瀬淡窓関連書籍:広瀬淡窓と咸宜園―ことごとく皆宜し

 朝吹真理子関連書籍:きことわ (新潮文庫)

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