学究:高嶋米峰(44)関連史料[43]

前回同様、朝日新聞掲載分から確認していきたいと思います。

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59.1925年(大正14年) 7月 13日 「床次總裁の宗教家招待會―昨夜芝公園三綠亭で―」

全文引用↓

「床次政友本黨總裁は十二日午後五時から芝公園三綠亭に都下の佛教團體の代表者三十餘名を招いて一夕の宴を催した、青松寺の佐藤鐡額、増上寺の道重嶺丸兩師を初め加藤咄堂、高島米峰、紀平正美氏等の顔も見○たデザートコースに入るや床次氏から「私は常に漸進主義である改革よりも改良主義を重んずる今や普選が實現した結果千三百萬人の有識者が殖○たがその人達の考へ様一つでは國運の上に重大なる影響があります、そこで普選の運用を過らぬやうにする爲には宗教家諸氏の御盡力を願はねばならぬ」と懇請して宴を閉ぢ休憩室で道重師や高島米峰氏から政治家に對する希望があつて八時半過ぎ散會した」

⇒1925年7月12日の午後5時から、東京にある仏教団体の代表者を招待し、床次竹二郎が芝公園三綠亭で開いた「宗教家招待會」の模様を伝えた記事。代表者には、これまでずーっとブログで記事を追ってきた高嶋米峰をはじめ、頻繁に見かける加藤咄堂、青松寺の佐藤鐡額、増上寺の道重嶺丸両師の名前が確認できる。

 この記事では、食事中(デザートコース)での床次のコメントが取り上げられている。その内容は以下のように纏められる。

○私は漸進的な改革よりも、改良主義を重視している。

○1925年(大正14年)5月5日に普通選挙法が公布されたことにより、満25歳以上の男子すべてに選挙権が与えられることになる。その影響により、有権者は千三百萬人ほどに増えることになるが、彼らによる選択が国運を正しい方向に進めるものになるように、宗教者にはご協力をお願いしたい。

 また、食事が終わり宴が閉じたあと、休憩室にて高嶋米峰と道重嶺丸から政治家への要望があったようである。

 参会した宗教家について、少し触れる。

 佐藤鐡額については、右記のHPに名前が確認できる⇒永平寺六十七世 北野元峰禅師 - 心の指針となった永平寺の禅師

 増上寺の道重信教は、明治から昭和前期に活躍した宗教者、教育者で、仏教の民衆化につとめた人物。1900年に、増上寺山内に仏学院を創設、徳富蘇峰寺内正毅らに仏教を講じた。1923年に、増上寺第79代法主に就任。関東大震災の際は、飛行機による空中からの死者回向を行ったこと、在家信者のためのラジオ法話に取り組んだことなどで知られる。

 

増上寺関連書籍:増上寺物語(ゴマブックス大活字シリーズ)

         増上寺 徳川将軍墓とその遺品・遺体

 紀平正美関連書籍:紀平正美 認識論 (NDL所蔵古書POD[岩波書店])