学究:高嶋米峰(40)関連史料[39]

前回同様、朝日新聞掲載分から確認していきたいと思います。

____________________________

55.1924年(大正13年) 8月 19日 「探してゐるもの」

全文引用↓

「     隠れた材料を 姉崎正治
 此夏は豊後でキリシタン迫害の跡を少々あるいて來ましたが、特に島原亂平定後のキリシタン處分に關する書類や遺物を諸方面に求めてゐるのです、まだ隠れた方面に材料が残つてゐると考へられますから、御紙の讀者中心當りのある方は知らせていただけば大幸。
      一休和尚の子 紹偵 高島米峰
 今から二十一年前、僕は、生れて始めて、著述とふものを公にした。それは『一休和尚傳』といふのである。ところが、一休に一人の子があつて、その名も年齢も、行實の一端もわかつて居るのであるが、その生涯の精しいことが書いてありさうな、菅原和長の『明應三年記』といふものが、手に入らないので、困つて居た。然るに、その『一休和尚傳』の紙型が、昨年の震火災で焼失したのを、先月改版して發行する場合、依然として、二十一年前の「探しもの」が、手に入らなかつたことを、遺憾としたのである。敢て、大方の高敎を仰ぐ」

⇒この記事は、姉崎正治「隠れた材料を」と高嶋米峰「一休和尚の子 紹偵」の二部で構成されている。記事名にもあるように、姉崎と高嶋が各々「探してゐるもの」について語る。

 まず姉崎は、1924年の夏に豊後のキリシタン迫害の跡をたずねたことを話し、島原の乱平定後のキリシタン処分に関係する書類や遺物を探していることを熱弁する。「御紙の讀者中心當りのある方は知らせていただけば大幸」と、キリシタン処分関連史料を求めている姿勢には、一学者として熱心さが感じ取れた。

 次に高嶋は、かつての処女作『一休和尚傳』に触れて、その中で一休和尚の子・紹偵について詳しく記述するための史料・菅原和長『明應三年記』が、未だに見つけられず困っていると語る。1923年の関東大震災を契機として、『一休和尚傳』を改版するにあたって、どうしても『明應三年記』が必要だという。姉崎の記事と同様、研究上必要となる史料への強い思いが伝わってくる内容であった。

 ちなみに、高嶋米峰『一休和尚傳 【改修版】』(明治書院、1942)の内容を確認してみると、以下のような文章がある。

「『大日本史』や、『野史』にも、菅原和長の『明應三年記』などを援いて、紹偵の事を書いてあるが、矢張りこれ以上の事は記してない。若し『明應三年記』といふものでも見たら、多少得るところもあるであらうが、遺憾なことには手に入らない。」(P208)

 結局、菅原和長『明應三年記』は入手できなかったようだ。

 高嶋米峰、残念!。

 

*日本のキリシタン関連書籍:消された信仰: 「最後のかくれキリシタン」--長崎・生月島の人々

              かくれキリシタン: 長崎・五島・平戸・天草をめぐる旅 (とんぼの本)

              かくれキリシタンの起源《信仰と信者の実相》

 一休和尚関連書籍:日本人のこころの言葉 一休

学究:徳富蘇峰(40)関連史料[39]

前回同様、朝日新聞掲載分から確認していきたいと思います。

____________________________

65.1908年(明治41年) 10月 19日 「●吉田松陰紀念會」

全文引用↓

「帝國教育會の主催に係る吉田松陰先生五十年紀念大會は十七日午後一時東京商業學校講堂にて擧行す大會の發起委員たる朝野知名の士既に二百人に上り招待を受けて至れる先生の遺族其他亦數百人青年學生の傍聴者を併せて會する者無慮千人以上に及び場の正面に先生の肖像を掲げ毛利兩家より寄贈の資盛を供へ根本正氏先づ開會の式辭を次に帝國教育會長辻新次氏祭文を朗讀し小學女生徒の紀念唱歌(文學博士井上哲次郎氏作)合唱ありし後頌徳演説に移り小松原文相、乃木大將、井上文學博士、三島中洲翁、嘉納治五郎氏、徳富猪一郎氏の熱烈なる演説ありて午後五時式を閉ぢ聴衆は別室に飾付し數十輻の先生遺墨を展観し遺族及被招待者は茶菓の饗應を受たり」

⇒1908年10月17日に、帝国教育会の主催で開かれた「吉田松陰先生五十年紀念大會」の模様を伝えた記事。吉田松陰は1859年11月21日に亡くなっていることから、没後50年を紀念した催しであると言える。

 大会の発起委員や先生(吉田松陰)の遺族、青年学生など、総計1000人以上の参会者がいたと記事には書かれている。会場の正面には吉田松陰の肖像が掲げられ、その前に毛利家からの寄贈品を供える。

 大会の流れを以下に簡単に纏める。

根本正の開会の式辞。

②帝国教育会長・辻新次の祭文朗読。

③小学女生徒の紀念唱歌井上哲次郎の作)合唱

小松原文相乃木希典井上哲次郎三島中洲嘉納治五郎徳富蘇峰による演説。

⑤午後五時に閉式

*閉式後、参加者は別室に飾っている数十輻の先生遺墨を拝観、遺族及被招待者は茶菓の饗應を受ける。

 

 以上の内容から、幾人かの人物をとりあげて解説を加える。

 開会の式辞を述べた根本正は、明治・大正期に活躍したキリスト教者・政治家(自由党→政友会)。バーモント大学卒業。安藤太郎と日本禁酒同盟を結成し顧問となり、義務教育無償化や未成年者飲酒禁止法成立などを果たした人物である。

 上記②の辻新次については「学究:徳富蘇峰(15)関連史料[14] - 学究ブログ(思想好きのぬたば)」を参照。

 上記④の「小松原文相」とは、小松原英太郎(こまつばらえいたろう)を指す。明治・大正期に、記者・内務官僚・大阪毎日新聞社長・文相(第二次桂内閣)など多方面にわたって活動した人物。

 同じく④の三島中洲(みしまちゅうしゅう)は、日本の漢学者。山田方谷や斎藤咄堂のもとでの朱子学陽明学・古学の学びを出発点として、東京裁判所や新治裁判所での判事や東京大学文科大学の古典科教授などを務めた。また、漢学塾二松学舎を創立したことでも知られている。

 

吉田松陰関連書籍:吉田松陰『留魂録』 (いつか読んでみたかった日本の名著シリーズ)

 三島中洲関連書籍:最後の儒者

          山田方谷・三島中洲 (叢書・日本の思想家)

 

 

学究:高嶋米峰(39)関連史料[38]

前回同様、朝日新聞掲載分から確認していきたいと思います。

____________________________

54.1924年(大正13年) 8月 3日 「學藝 旅・読書 自然を征服 高島米峰

一部引用↓

「♢境遇が許さないので、まだ、探勝旅行風流旅行の經驗は、持合せて居ないがただ時々、講演に招かれて、地方に出かけることがある位。一昨年、岡山縣の夏期大學に招かれた時、高梁町の臨時講演で、九十八度といふ暑熱の中に立ち、三時間半といふ長講を一席に辯じ上げ、袴の裾から雫が垂れる程汗をかき、體中の水分が、悉く出發したやうな感じをしたことがあるが、それでも、人と自然とを、立派に征服し得たやうな、誇りと快さとを、満喫せずには居られなかつた。
 ♢夏の讀書は、組織的なものよりは、斷片的で、しかも含蓄の多いものを、選ぶべきである。理由は略するが、まづ、『論語』『碧巌録』『嘆異鈔』など。」

⇒高嶋米峰が自身の旅・夏の読書について語った記事。

 米峰は、これまでに探勝(名勝の地を見に行くこと)旅行や風流旅行をした経験はなく、講演に招かれた際に地方に出向くことが、旅行に近い経験であると語る。数多くの講演をこなしてきた高嶋米峰らしい経験談であると言える。

 今回の記事では、岡山県の夏期大学で三時間半の講演に挑んだときの、汗が滴る暑さとそれを通して感じた達成感がいきいきと語られている。高嶋米峰の講演後の心境を伝える貴重な発言である(⇒「人と自然とを、立派に征服し得たやうな、誇りと快さとを、満喫せずには居られなかつた」)。

 次に「夏の読書」についてであるが、高嶋米峰は組織的な(⇒理論的な)書物よりも、断片的で含蓄のある書物を薦めている。これは高嶋が「理論的な書物」を読むことを好まなかったというよりも、「夏」という季節において向き合う書物としては適さないと判断したと思われる。例としてあげた書物には、『論語』『碧巌録』(へきがんろく)『歎異抄』があった。

 

*『論語』関連書籍:論語 (岩波文庫 青202-1)

          現代語訳 論語と算盤 (ちくま新書)

 『碧巌録』関連書籍:『碧巌録』を読む (岩波現代文庫)

           碧巌録〈上〉 (岩波文庫)

           碧巌録 (中) (岩波文庫)

           碧巌録 (下) (岩波文庫)

 『歎異抄』関連書籍:歎異抄 (岩波文庫 青318-2)

 

学究:徳富蘇峰(39)関連史料[38]

前回同様、朝日新聞掲載分から確認していきたいと思います。

____________________________

64.1908年(明治41年) 10月 5日 「●伊國鴻爪(七) △米國大使の傳言 楚人冠」

「日本に居る頃は外國公使中の最年少者として知られてゐたグリスカム君が今伊太利駐箚の米國大使として羅馬に來て居る、と言ふことを昨夜初めて聞いたので今朝は朝餐がすむと其まヽ馬車を飛ばせた」

「執行君(註・執行弘道)への傳言は僕慥に之を命の通り傳へたが其外今に傳へずに居るのが大分ある徳富蘇峰君へといふのも其の一だが外に伊藤公爵と東郷大將とに宜しくといふのもあつた」

⇒かつて特命全権公使として日本に駐在していたロイド・グリスカム(在職:1903-1905年)と徳富蘇峰の関係性が垣間見える記事。在職時は、日本にいる外国公使の中で最年少者であったことが示されている。

 この記事では、グリスカムがイタリア駐在の米国大使としてローマに来ていることが書かれ、そこに記事執筆者・杉村楚人冠が足を運んでいる。そこで外交官・執行弘道(しゅぎょうひろみち)と合流し、グリスカムからの伝言を執行を通して受け取った。その伝言先には、徳富蘇峰伊藤博文東郷平八郎がいたという。一米国大使と蘇峰との間にどのような繋がりがあったのか。国際情勢の中の徳富蘇峰の姿勢・位置づけについても調べていく必要がある。

 上記で取り上げた執行弘道は、種々の美術関係組織と深く関わっていたことで知られる人物で、第3回内国勧業博覧会、シカゴ万国博覧会パリ万国博覧会などで、日本美術部門の審査員や鑑査官を務めた。

 

内国勧業博覧会関連書籍:帝国の視線―博覧会と異文化表象

 万国博覧会関連書籍:EXPO'70 驚愕! 大阪万国博覧会のすべて

           幻の万博:紀元二千六百年をめぐる博覧会のポリティクス

           図説 万博の歴史 1851-1970 (Shogakukan Creative Visual Book)

学究:高嶋米峰(38)関連史料[37]

前回同様、朝日新聞掲載分から確認していきたいと思います。

____________________________

53.1924年(大正13年) 4月 28日 「六百の聴衆悉く 國字論者となつて 新井白石二百年祭の記念學術講演會」

全文引用↓

「單に學○たるに止まらず、詩人として、また同時に政治家としての材幹を備へて徳川時代中興の業蹟をつんだ我が新井白石がこの世を去つてから正に二百年となるを記念し、日本ローマ字會主催、本社後援の學術講演會が、廿七日午後零時半から丸之内商工奨勵館で開かれた、聴衆六百、堂に滿ち婦人達も多數に見受けた、まづ福永海軍少佐の開會の挨拶に續いて上田文學博士の「白石とローマ字」あり、我國最初のローマ字論者としての卓見と、漢學者にして國語尊重の叫びを擧げた快心事を説かれた、次いで土岐本社學藝部長は「白石からヘボンへ」のローマ字論の變○進化を説き、日本式ローマ字がその発展の歸結であることを述べた、更に穂積法學博士は「史料としての川柳」を、ローマ字書きにした印刷物を與へられ、聴衆と共にローマ字川柳を讀みながら、面白く徳川時代に於ける離婚訴訟の説明をした最後に老軀を壇上にはこんだ田中舘理學博士は「現代科學とローマ字」との関係を述べ、ローマ字は既に我國社會の實生活の一部となつてゐる事を元氣溢るゝ調子で喝破された、終つてローマ字の歌を合唱し、聴衆悉く愉快な國字論者となつて散會した、午後六時より辯士及びローマ字會員、聴衆六十名餘、京橋千代田館内富士見軒で懇談晩餐會あり、田中館、穂積、池野、中村、丘諸博士、永地畫伯、高島米峰、福永恭助氏等の顔ぶれも見られ、卓上演説に賑つて九時半散會した」

江戸幕府6代将軍・家宣、7代将軍・家継の時世に幕政を補佐し、『西洋紀聞』『読史余論』などを著した人物として知られる新井白石の没後200年を記念した学術講演会の模様を伝えた記事。講演会は、日本ローマ字会主催、朝日新聞社後援のもと行なわれた。

 会は以下のような流れで進行した。(各講演の内容を簡単に示す。)

①福永海軍少佐(福永恭助)による開会の挨拶

②上田萬年「白石とローマ字」:白石を「我國最初のローマ字論者」であり、「国語」の重要性を主張した学者として評価

③土岐朝日新聞社学芸部長「白石からヘボンへ」:「日本式ローマ字」を評価

穂積陳重(ほづみのぶしげ)「史料としての川柳」:ローマ字書きじた川柳を通して、徳川時代の風俗問題を見つめる

⑤田中舘愛橘(たなかだてあいきつ)「現代科学とローマ字」:ローマ字が日本社会の実生活の一部となっていることを説く

⑥ローマ字の歌を合唱

⑦散会

⑧講演者、ローマ字会員、聴衆約六十名が集い、京橋千代田館内富士見軒で懇談晩餐会を開く

 学術講演会に参加している人物の中から幾人か取りあげたい。

 上記の①にある福永恭助は昭和期の作家で元・海軍少佐。自身の軍事経験を踏まえた海洋小説を著す。今回福永は国語国字問題に強い関心のあったことから、「ローマ字」についての議論がなされる学術講演会に参加したと思われる。

 次に上記の⑤にある田中舘愛橘。彼は岩手県生まれの地球物理学の確立者、東京帝国大学教授。東京帝国大学航空研究所の設立や日本式ローマ字・メートル法の普及に尽力した人物としても知られる。

 

新井白石関連書籍:折りたく柴の記 (中公クラシックス)

          新井白石の政治戦略―儒学と史論

          新井白石「読史余論」 現代語訳 (講談社学術文庫)

 穂積陳重関連書籍:続法窓夜話 (岩波文庫 青 147-2)

          吉野作造と上杉愼吉―日独戦争から大正デモクラシーへ―

学究:徳富蘇峰(38)関連史料[37]

前回同様、朝日新聞掲載分から確認していきたいと思います。

____________________________

63.1908年(明治41年) 9月 28日 「●國木田獨歩追悼會」

全文引用↓

矢野龍溪徳富蘇峰田山花袋、小栗楓葉、滿谷國四郎、齋藤弔花、田村江東諸氏の發起にて來る三十日午後一時より神田青年會館に於て故國木田獨歩氏の追悼會を開き矢野龍溪徳冨蘆花、植村正久、竹越與三郎、山路愛山島村抱月島崎藤村、柳田國四郎、田山花袋、小栗楓葉諸氏の追悼演説、北村季晴、同初子、天野愛子三氏の西洋音樂、鈴木皷村氏の箏曲は共に獨歩の新體詩を作曲せしものにて尚當日滿谷國四郎、小杉未醒兩畫伯揮毫の紀念繪葉書を來會者に頒つ由(會費は廿錢)」

⇒今回は「國木田獨歩追悼會」が9月30日に催されることを伝える記事。

 ブログでは、学究:徳富蘇峰(36)関連史料[35] - 学究ブログ(思想好きのぬたば)の中で、「故國木田獨歩氏の葬儀」について触れている。

 この追悼会は、矢野龍溪徳富蘇峰田山花袋らを発起人として開催され、徳冨蘆花山路愛山島崎藤村らによる追悼演説、西洋音楽演奏、箏曲演奏などが行われる。また、追悼会の参加者には、「滿谷國四郎、小杉未醒兩畫伯揮毫の紀念繪葉書」が配られたようである。

 発起人メンバーの内、齋藤弔花(さいとうちょうか)は明治から昭和期に活躍した文筆家。神戸新聞社などで記者活動をするかたわら、『独歩と武蔵野』(晃文社、1942)や『蘆花と作品』(晃文社、1943)などの作品を著した。

 満谷国四郎と名を並べる小杉未醒については、小杉放庵 :: 東文研アーカイブデータベースを参照。

 

小杉未醒関連書籍:新訳絵本水滸伝

 北村季晴関連書籍:信濃の国〜信州宝歌 / カラオケ入り

          

 

 

学究:高嶋米峰(37)関連史料[36]

前回同様、朝日新聞掲載分から確認していきたいと思います。

____________________________

48.1924年(大正13年) 1月 31日 「最近の感想 一夫一婦 高島米峰

全文引用↓

「夫婦は人倫の端緒で、一夫一婦は人類の常道である。今吾等の皇太子殿下が、結婚の禮を行はせられたのは、正に吾等にその範を垂れ給ふものである。従つて、吾等は、ただ、お目出度いと、喜び合ふだけでは滿足が出來ない。吾等は、何か、この場合、最も意義ある事業を成遂げて、この喜びを、永年に記念し、奉りたい。
 曰く公娼、曰く蓄妾、凡そ、斯くの如き惡風、皆是、人倫を紊り、人道を壌るところの存在である。この際、若し、その一つでも撲滅し得るならば、これに勝る記念事業は、またとあるまい。」

⇒1923年(大正12年)12月27日に生じた虎ノ門事件などを経た裕仁親王が、1924(大正13年)に久邇宮邦彦王の第一王女・良子女王との間で行なった結婚に対する高嶋米峰の感想・意見を述べた記事。

 高嶋は、上記の結婚を「一夫一婦」の象徴的な例として取り上げ、ただ「お目出度い」と喜ぶだけではなく、これを契機として「意義ある事業」を成すべきだとしている。ならばその「意義ある事業」とは何か。

 これまで高嶋に関する記事を追ってきた中で、最も活動的な運動に「廃娼運動」がある。ここから皇太子殿下の結婚を、「公娼、蓄妾」を廃止し、悪風・悪慣習を取除く活動の契機にしようというのが、高嶋の主張である。

 上記の議論には、当時多くの国民から尊敬の念を持たれていた皇太子(皇族)の存在を利用しようとする魂胆が透けて見える。高嶋自身が、皇族や天皇というものについて、どのような認識を持っていたのかも、今後は考えていきたい。

 

裕仁親王関連書籍⇒【復刻版】昭和天皇 東宮御外遊記―1921年皇太子裕仁親王の訪欧記 (響林社文庫)

          昭和天皇 (岩波新書)

          昭和天皇の終戦史 (岩波新書)

          昭和天皇―「理性の君主」の孤独 (中公新書)