学究:徳富蘇峰(36)関連史料[35]

前回同様、朝日新聞掲載分から確認していきたいと思います。

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61.1908年(明治41年) 6月 30日 「●故國木田獨歩氏の葬儀」

全文引用↓

「故國木田獨歩氏の葬儀は昨日午前十時より青山齋場に於て執行大導師中里日勝師の引導に次で田村三治氏は故人の履歴を朗讀し徳富蘇峰田山花袋、早稻田學友總代島村瀧三郎 龍土會總代中澤重雄、舊獨歩社總代滿谷國四郎、齋藤謙藏諸氏の弔辭あり夫れより令息虎雄未亡人治子長女貞子令弟収二氏を始め親戚友人等順次焼香し式終りたるは正午頃なりき會葬者は各方面各階級の人士を通じて四百餘名に及びたり」

⇒6月29日に開かれた国木田独歩の葬儀の様子を伝えた記事。

 引導を担ったのは、日蓮宗の僧侶・中里日勝である。中里の主なる経歴については、疋田精俊氏が雑誌『智山学報』(32巻、1983)に投稿した論稿「明治仏教の世俗化論― 中里日勝の寺族形成―」(P169-190)が参考になる。以下に、該当箇所を引用する。

安政六年(一八五九)九月一七日一橋家直参の家の次男として生れ、明治四年(一八七一)四月八日一三歳のとき真間弘法寺高松日棺について得度し弘立という。同一七年二六歳で小石川蓮華寺住職となり、 同一九年二八歳で日蓮宗大教院卒業する。同二〇年三月録司補、同年一〇月二九歳のとき東京神田区鈴木町成立学校で英語学を学び、同二二年一月三一歳で英人ウィリアム・マンソンについて英会話を修習、同年赤坂円通寺へ転住職し、同二四年四月中村敬宇・長三洲より書道や漢詩を学ぶ。同二五年一〇月三四歳で第一区大檀林助教授、同二七年に赤坂愛敬女学校設立して校長就任、同三〇年八月三九歳で円通寺内の小檀林長就任し、同四〇年一一月四九歳のとき福田会育子院常務、同四四年五三歳で本山玉沢妙法華寺住職、大正九年聖誕七百年奉賛会顧問、勅額奉戴奉行員、大正年間には北京に東洋文化研究所設立し更に玉川に日勝庵を建立、昭和六年一〇月円通寺境内に図書館日勝文庫を設立して仏・漢書等約一万四千冊蔵することにより文部省及び宗務院から表彰される。 同年七月身延奉送顧問や赤坂仏教会長就任、同一〇年八月七七歳で全国仏教大会顧問、同一八年八五歳を以て遷化する。かように宗門では重鎮的存在であり、また教育や社会面でも功績がありかなり名声を博した。」(P170)

  葬式にて国木田独歩の履歴を朗読したのは田村三治。田村は明治から昭和初期に活躍した新聞記者。東京専門学校在学中『文壇』の同人となり、国木田独歩と親交を結ぶ。その後、中央新聞社に入社、のち主筆となる。独歩の死後、田山花袋らと国木田独歩の日記『欺かざるの記』を校訂した。

 弔辞をよんだ人物としては、満谷国四郎に注目。詳細はOHARA MUSEUM of ART ― 作品紹介>主な作品の紹介>日本の絵画と彫刻>満谷国四郎を参照。

 会葬者は400余名に及んだ。

 

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