学究:高嶋米峰(38)関連史料[37]

前回同様、朝日新聞掲載分から確認していきたいと思います。

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53.1924年(大正13年) 4月 28日 「六百の聴衆悉く 國字論者となつて 新井白石二百年祭の記念學術講演會」

全文引用↓

「單に學○たるに止まらず、詩人として、また同時に政治家としての材幹を備へて徳川時代中興の業蹟をつんだ我が新井白石がこの世を去つてから正に二百年となるを記念し、日本ローマ字會主催、本社後援の學術講演會が、廿七日午後零時半から丸之内商工奨勵館で開かれた、聴衆六百、堂に滿ち婦人達も多數に見受けた、まづ福永海軍少佐の開會の挨拶に續いて上田文學博士の「白石とローマ字」あり、我國最初のローマ字論者としての卓見と、漢學者にして國語尊重の叫びを擧げた快心事を説かれた、次いで土岐本社學藝部長は「白石からヘボンへ」のローマ字論の變○進化を説き、日本式ローマ字がその発展の歸結であることを述べた、更に穂積法學博士は「史料としての川柳」を、ローマ字書きにした印刷物を與へられ、聴衆と共にローマ字川柳を讀みながら、面白く徳川時代に於ける離婚訴訟の説明をした最後に老軀を壇上にはこんだ田中舘理學博士は「現代科學とローマ字」との関係を述べ、ローマ字は既に我國社會の實生活の一部となつてゐる事を元氣溢るゝ調子で喝破された、終つてローマ字の歌を合唱し、聴衆悉く愉快な國字論者となつて散會した、午後六時より辯士及びローマ字會員、聴衆六十名餘、京橋千代田館内富士見軒で懇談晩餐會あり、田中館、穂積、池野、中村、丘諸博士、永地畫伯、高島米峰、福永恭助氏等の顔ぶれも見られ、卓上演説に賑つて九時半散會した」

江戸幕府6代将軍・家宣、7代将軍・家継の時世に幕政を補佐し、『西洋紀聞』『読史余論』などを著した人物として知られる新井白石の没後200年を記念した学術講演会の模様を伝えた記事。講演会は、日本ローマ字会主催、朝日新聞社後援のもと行なわれた。

 会は以下のような流れで進行した。(各講演の内容を簡単に示す。)

①福永海軍少佐(福永恭助)による開会の挨拶

②上田萬年「白石とローマ字」:白石を「我國最初のローマ字論者」であり、「国語」の重要性を主張した学者として評価

③土岐朝日新聞社学芸部長「白石からヘボンへ」:「日本式ローマ字」を評価

穂積陳重(ほづみのぶしげ)「史料としての川柳」:ローマ字書きじた川柳を通して、徳川時代の風俗問題を見つめる

⑤田中舘愛橘(たなかだてあいきつ)「現代科学とローマ字」:ローマ字が日本社会の実生活の一部となっていることを説く

⑥ローマ字の歌を合唱

⑦散会

⑧講演者、ローマ字会員、聴衆約六十名が集い、京橋千代田館内富士見軒で懇談晩餐会を開く

 学術講演会に参加している人物の中から幾人か取りあげたい。

 上記の①にある福永恭助は昭和期の作家で元・海軍少佐。自身の軍事経験を踏まえた海洋小説を著す。今回福永は国語国字問題に強い関心のあったことから、「ローマ字」についての議論がなされる学術講演会に参加したと思われる。

 次に上記の⑤にある田中舘愛橘。彼は岩手県生まれの地球物理学の確立者、東京帝国大学教授。東京帝国大学航空研究所の設立や日本式ローマ字・メートル法の普及に尽力した人物としても知られる。

 

新井白石関連書籍:折りたく柴の記 (中公クラシックス)

          新井白石の政治戦略―儒学と史論

          新井白石「読史余論」 現代語訳 (講談社学術文庫)

 穂積陳重関連書籍:続法窓夜話 (岩波文庫 青 147-2)

          吉野作造と上杉愼吉―日独戦争から大正デモクラシーへ―