学究:徳富蘇峰(40)関連史料[39]

前回同様、朝日新聞掲載分から確認していきたいと思います。

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65.1908年(明治41年) 10月 19日 「●吉田松陰紀念會」

全文引用↓

「帝國教育會の主催に係る吉田松陰先生五十年紀念大會は十七日午後一時東京商業學校講堂にて擧行す大會の發起委員たる朝野知名の士既に二百人に上り招待を受けて至れる先生の遺族其他亦數百人青年學生の傍聴者を併せて會する者無慮千人以上に及び場の正面に先生の肖像を掲げ毛利兩家より寄贈の資盛を供へ根本正氏先づ開會の式辭を次に帝國教育會長辻新次氏祭文を朗讀し小學女生徒の紀念唱歌(文學博士井上哲次郎氏作)合唱ありし後頌徳演説に移り小松原文相、乃木大將、井上文學博士、三島中洲翁、嘉納治五郎氏、徳富猪一郎氏の熱烈なる演説ありて午後五時式を閉ぢ聴衆は別室に飾付し數十輻の先生遺墨を展観し遺族及被招待者は茶菓の饗應を受たり」

⇒1908年10月17日に、帝国教育会の主催で開かれた「吉田松陰先生五十年紀念大會」の模様を伝えた記事。吉田松陰は1859年11月21日に亡くなっていることから、没後50年を紀念した催しであると言える。

 大会の発起委員や先生(吉田松陰)の遺族、青年学生など、総計1000人以上の参会者がいたと記事には書かれている。会場の正面には吉田松陰の肖像が掲げられ、その前に毛利家からの寄贈品を供える。

 大会の流れを以下に簡単に纏める。

根本正の開会の式辞。

②帝国教育会長・辻新次の祭文朗読。

③小学女生徒の紀念唱歌井上哲次郎の作)合唱

小松原文相乃木希典井上哲次郎三島中洲嘉納治五郎徳富蘇峰による演説。

⑤午後五時に閉式

*閉式後、参加者は別室に飾っている数十輻の先生遺墨を拝観、遺族及被招待者は茶菓の饗應を受ける。

 

 以上の内容から、幾人かの人物をとりあげて解説を加える。

 開会の式辞を述べた根本正は、明治・大正期に活躍したキリスト教者・政治家(自由党→政友会)。バーモント大学卒業。安藤太郎と日本禁酒同盟を結成し顧問となり、義務教育無償化や未成年者飲酒禁止法成立などを果たした人物である。

 上記②の辻新次については「学究:徳富蘇峰(15)関連史料[14] - 学究ブログ(思想好きのぬたば)」を参照。

 上記④の「小松原文相」とは、小松原英太郎(こまつばらえいたろう)を指す。明治・大正期に、記者・内務官僚・大阪毎日新聞社長・文相(第二次桂内閣)など多方面にわたって活動した人物。

 同じく④の三島中洲(みしまちゅうしゅう)は、日本の漢学者。山田方谷や斎藤咄堂のもとでの朱子学陽明学・古学の学びを出発点として、東京裁判所や新治裁判所での判事や東京大学文科大学の古典科教授などを務めた。また、漢学塾二松学舎を創立したことでも知られている。

 

吉田松陰関連書籍:吉田松陰『留魂録』 (いつか読んでみたかった日本の名著シリーズ)

 三島中洲関連書籍:最後の儒者

          山田方谷・三島中洲 (叢書・日本の思想家)