学究:徳富蘇峰(37)関連史料[36]

前回同様、朝日新聞掲載分から確認していきたいと思います。

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62.1908年(明治41年) 7月 23日 「●各地方新聞俱樂部」

「各地方有力新聞なる伊勢、いばらき、北海タイムス、東北新聞、河北、横濱貿易、神戸又新、高地、静岡、下野、新愛知、信毎、九日各社の發起に係る地方新聞俱樂部發會式は廿一日午後一時より向島札幌ビール庭園内に擧行し會長大橋賴謨氏の挨拶に對し來賓總代として杉田定一氏の謝辭あり夫れより大隈板垣の兩伯、平田、大浦の兩大臣、徳富、大岡 園城寺、長谷場、大石、臼井、島田、仙石諸氏の祝詞又は演説あり餘興としては落語、浪花節及び模擬店の設備あり尚ほ市内各商店よりの寄贈品を福引として分配し頗る盛會なりき來會五百餘名」

北海タイムスや横浜貿易などの地方の有力新聞が協同して結成された「地方新聞俱樂部」の発会式の様子を描いた記事。俱楽部の会長は、大橋頼摸(おおはしらいも、記事中では「大橋賴謨」となっている)。大橋は、静岡県会議員、政友会所属の衆議院議員を務めた政治家で、上記の「地方有力新聞」にあがっている「静岡新報(静岡新聞の前身)」の社長職にも就いている。

 来賓総代の杉田定一に関しては、「学究:徳富蘇峰(18)関連史料[17] - 学究ブログ(思想好きのぬたば)&杉田定一 | 近代日本人の肖像」を参照。

 地方新聞俱楽部発会式では、大隈重信板垣退助、平田東助(⇒平田東助 | 近代日本人の肖像)、大浦兼武(⇒大浦兼武 | 近代日本人の肖像)ら、政治関係者の名が多く並ぶ。彼らによる祝詞・演説が行われた後は、落語・浪花節・模擬店設備・市内各商店提供物を品物とした福引で盛り上がった様である。

 

静岡新聞関連書籍⇒静岡県歴史年表

 平田東助関連書籍⇒日本立法資料全集 別巻 715 改正市制町村制精義 (地方自治法研究復刊大系)

 大浦兼武関連書籍⇒民権闘争七十年 咢堂回想録 (講談社学術文庫)

 

学究:高嶋米峰(36)関連史料[35]

前回同様、朝日新聞掲載分から確認していきたいと思います。

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47.1923年(大正12年) 11月 22日 「新海氏が刻苦一年 聖観音の巨像 作製を終つて愈鋳造 總持寺寺畔に建立」

「彫刻家新海竹太郎氏は鶴見總持寺に託せられ昨年八月以來高さ一丈九尺の聖観音の像を彫刻中であつたが、漸く二三日前に全く賛成し愈鋳造工場に廻すべく二十日は漆喰像の最後の日として、總持寺から伊藤道海師今後の工事監督伊東忠太博士其他高島米峰杉村楚人冠氏等集り、仰ぎ見る巨像に別れを惜しんだ、此の観音は前總持寺管長石川素童師が主唱の下に明治聖帝の偉徳を記念し、同時に明治四十五年の同寺の移轉をも記念する爲で日暮里阿部工場で來年十月銅像に完成の上は總持寺境内大園林に安置する筈で○観音が三十三身に身を現じて衆生を濟度した事に因み正像十六尺蓮座三尺臺石二十四尺で三十三尺の高さとなり、信徒仰望の的となるであらう、新海氏は之を引受けて以來その製作には非常に苦心し、先づ従來の佛像にあり勝ちな不自然な所を排し、同時に寫生的な生々しさを去つて、見る者に自然に崇高な宗教的尊念を感ぜしむる爲、先づ奈良薬師寺の聖観其他中古の佛像に就いて十分研究し、それに印度アヂアンタやブーガーの寶冠等に渡つて研究した上取掛かつたもので、「かう言ふ巨像はある間隔を置いた均整に最も注意しました」と新海氏は苦心の跡を辿つてゐた「肩、顔特に額や瞳は苦しんだ」新海氏の勞は酬いられて、雜然としたアトリエの中に一種の靈感を漂はしてゐた」

⇒この記事は、明治天皇の偉徳記念&明治45年の總持寺移転の記念のために制作が目指された、聖観音銅像に関するものである。彫刻を任されたのは、新海竹太郎である。(新海については、かつて彼が制作し、第二回官展に出展された「不動」について、その作品の特徴を高嶋米峰の批評とともに掲載したことがある→学究:高嶋米峰(26)関連史料[25] - 学究ブログ(思想好きのぬたば)

 新海が彫刻を完成させ(漆喰像の状態)、次に鋳造工場にまわす段階に入ったことを記念して、次の段階の監督を務める伊東忠太高島米峰杉村楚人冠聖観音像の拝観にきている様子が描かれている。「仰ぎ見られる」聖観音は「巨像」と表現され、「信徒仰望の的」ともなるといわれる。

 記事中では、新海が仏像を作製する上で注意したことがあげられており、日本・インドの仏像史を参照しての、仏像の不自然さの解消&均整への追求の熱意を伺うことができる。そういう風に作られた「聖観音」には「霊感」が漂っていた、と記事は伝えている。

 

伊東忠太関連書籍:明治の建築家 伊東忠太 オスマン帝国をゆく

          日本の建築と思想―伊東忠太小論

 總持寺関連書籍:總持寺の歴史<増補新版>

         曹洞宗の葬儀と供養 おくる

学究:徳富蘇峰(36)関連史料[35]

前回同様、朝日新聞掲載分から確認していきたいと思います。

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61.1908年(明治41年) 6月 30日 「●故國木田獨歩氏の葬儀」

全文引用↓

「故國木田獨歩氏の葬儀は昨日午前十時より青山齋場に於て執行大導師中里日勝師の引導に次で田村三治氏は故人の履歴を朗讀し徳富蘇峰田山花袋、早稻田學友總代島村瀧三郎 龍土會總代中澤重雄、舊獨歩社總代滿谷國四郎、齋藤謙藏諸氏の弔辭あり夫れより令息虎雄未亡人治子長女貞子令弟収二氏を始め親戚友人等順次焼香し式終りたるは正午頃なりき會葬者は各方面各階級の人士を通じて四百餘名に及びたり」

⇒6月29日に開かれた国木田独歩の葬儀の様子を伝えた記事。

 引導を担ったのは、日蓮宗の僧侶・中里日勝である。中里の主なる経歴については、疋田精俊氏が雑誌『智山学報』(32巻、1983)に投稿した論稿「明治仏教の世俗化論― 中里日勝の寺族形成―」(P169-190)が参考になる。以下に、該当箇所を引用する。

安政六年(一八五九)九月一七日一橋家直参の家の次男として生れ、明治四年(一八七一)四月八日一三歳のとき真間弘法寺高松日棺について得度し弘立という。同一七年二六歳で小石川蓮華寺住職となり、 同一九年二八歳で日蓮宗大教院卒業する。同二〇年三月録司補、同年一〇月二九歳のとき東京神田区鈴木町成立学校で英語学を学び、同二二年一月三一歳で英人ウィリアム・マンソンについて英会話を修習、同年赤坂円通寺へ転住職し、同二四年四月中村敬宇・長三洲より書道や漢詩を学ぶ。同二五年一〇月三四歳で第一区大檀林助教授、同二七年に赤坂愛敬女学校設立して校長就任、同三〇年八月三九歳で円通寺内の小檀林長就任し、同四〇年一一月四九歳のとき福田会育子院常務、同四四年五三歳で本山玉沢妙法華寺住職、大正九年聖誕七百年奉賛会顧問、勅額奉戴奉行員、大正年間には北京に東洋文化研究所設立し更に玉川に日勝庵を建立、昭和六年一〇月円通寺境内に図書館日勝文庫を設立して仏・漢書等約一万四千冊蔵することにより文部省及び宗務院から表彰される。 同年七月身延奉送顧問や赤坂仏教会長就任、同一〇年八月七七歳で全国仏教大会顧問、同一八年八五歳を以て遷化する。かように宗門では重鎮的存在であり、また教育や社会面でも功績がありかなり名声を博した。」(P170)

  葬式にて国木田独歩の履歴を朗読したのは田村三治。田村は明治から昭和初期に活躍した新聞記者。東京専門学校在学中『文壇』の同人となり、国木田独歩と親交を結ぶ。その後、中央新聞社に入社、のち主筆となる。独歩の死後、田山花袋らと国木田独歩の日記『欺かざるの記』を校訂した。

 弔辞をよんだ人物としては、満谷国四郎に注目。詳細はOHARA MUSEUM of ART ― 作品紹介>主な作品の紹介>日本の絵画と彫刻>満谷国四郎を参照。

 会葬者は400余名に及んだ。

 

国木田独歩関連書籍:編集者国木田独歩の時代 角川選書

                                       国木田独歩 (Century Books―人と作品) 

 田山花袋関連書籍:蒲団・重右衛門の最後 (新潮文庫)

          田山花袋 作品の形成

          田山花袋 (Century Books―人と作品)

学究:高嶋米峰(35)関連史料[34]

前回同様、朝日新聞掲載分から確認していきたいと思います。

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46.1922年(大正11年) 12月 9日 「青鉛筆」

一部引用↓

「兒童心理學の高島平三郎氏が先頃北陸地方へ旅行した時同車した森本前山形縣知事が頻と慇懃を極めて話しかけるので、高島氏くすぐつたい気持でゐるとそこへ警察部長が入つて來た、すると森本氏心得顔に立ち上つて「こちらは後藤子爵閣下です」と紹介したので高島さん初めて人違ひされた事が解つた、聞く處によると高島さんはよく片山禁酒博士や高島米峰氏等とも間違はれるさうだお序に大人の心理學も御研究になつては如何」

⇒児童心理学者で、東洋大学第13代学長(1944年11月から1945年7月の期間)も務めた高島平三郎に関するエピソード。

 高島が北陸地方に汽車旅行した際、同車していた森本前山形県知事(森本泉)が頻りに話しかけてくる。意味が分らず、くすぐったく思っていると、車内に入ってきて警察部長に対して森本が「こちらは後藤子爵閣下(⇒後藤新平)です」と紹介した。そこで初めて高島は、人違いされていることに気付く。高島は以上の他にも、片山禁酒博士(片山國嘉⇒学究:高嶋米峰(29)関連史料[28] - 学究ブログ(思想好きのぬたば))や高嶋米峰などと間違われることがある、と書かれている(「お序に大人の心理學も御研究になつては如何」という記事執筆者の言葉は面白い)。

 

*高島平三郎関連書籍:高島平三郎著作集 (学術著作集ライブラリー)

 後藤新平関連書籍:時代が求める後藤新平 〔自治/公共/世界認識〕

          

 

学究:徳富蘇峰(35)関連史料[34]

前回同様、朝日新聞掲載分から確認していきたいと思います。

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60.1908年(明治41年) 6月 29日 「●大日本文明協會」

全文引用↓

「昨日上野精養軒に於て午餐會を催したり來會者約七十名江藤理事本會の目的は戦後經營の一手段として歐米の智識を普及するため善良なる書物を選び飜譯出版をなすにありと述べ浮田博士編輯部員を代表して編輯に關する抱負を語り名譽會長大隈伯之れに次ぎ今の日本は猶未だ模倣時代にある事及歐米の語學は普及せざるを以て飜譯物の必要なること模倣は頓て創作を産み出すべきこと及此會の事業にして成功せんか學者優遇の道を講じ創作物の刊行を爲すべきこと等有益なる演説を以て挨拶に代ふ。來賓總代として徳富蘇峰氏飜譯は極めて難事なるを以て其心して編輯に従事せられたき事又大業なる豫告など爲さざる事等二三の希望を述べて答辭とし一同撮影の後散會せり」

 ⇒6月28日に開かれた「大日本文明協會」の午餐会の様子を描いた記事。

 大日本文明協会とは、明治後期~昭和前期に活動した文化団体。大隈重信が主唱して、1908年(明治41年)4月3日に設立された。東西文明の統一を目指して、当時の欧米の思想を代表する名著を翻訳し、世界文化の流行に触れる機会を提供することを目的とした団体である。史料中でも、日露戦争後の協会運営として、欧米の善良なる書物を翻訳出版していくという方針が示されている(編集長・浮田和民)。

 協会の名誉会長・大隈重信は、当時の日本の現状を「模倣時代」と呼び、欧米の言語の普及度の低さに鑑み、日本での翻訳物の出版の必要性を説いている。

 来賓総代として参加している徳富蘇峰の発言にも注目。①翻訳という行為は非常に難しい、②大袈裟な予告・宣伝は控えるべき。

 

*大日本文明協会関連書籍:国史大辞典〈第8巻〉

 大隈重信関連書籍:大隈重信 - 民意と統治の相克 (中公叢書)

          大隈重信自叙伝 (岩波文庫)

          福澤諭吉と大隈重信―洋学書生の幕末維新 (日本史リブレット)

学究:高嶋米峰(34)関連史料[33]

前回同様、朝日新聞掲載分から確認していきたいと思います。

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45.1922年(大正11年) 12月 8日 「青鉛筆」

一部引用↓

「消費節約の實行委員會が、六日夜商工奨勵館で開かれた、その席上、例の高島米峰さん、禿頭を持上げ宇佐美知○に一本突込んだ「知事は節約の委員長でありながら、毎年暮に府會議員を招んで五千圓も料理屋に撒く、あれはどう思ふか」とやつた、知事さん兜を脱いで「かしこまりました」」

⇒禁欲的な思想の持主である高嶋米峰の性格が如何なく発揮された記事。高嶋米峰は「禿頭」を強調されることが多い。

 東京で開かれた消費・節約に関する委員会において、当時、1921年5月から東京府知事に就任していた宇佐美勝夫に対して、年の暮れに料理屋で椀飯振舞をしていることを直接指摘して、消費・節約に積極的になるよう仕向けている。

 宇佐美勝夫は、東京府知事に就任する以前は、富山県知事や統監府参与官、韓国政府内務次官、朝鮮総督府内務部長官などを務めた経歴をもち、東京府知事退任後は、貴族院勅選議員に任じられている。

 

宇佐美勝夫関連書籍:植民地帝国人物叢書 28(朝鮮編 9) 宇佐美勝夫氏之追憶録

学究:徳富蘇峰(34)関連史料[33]

前回同様、朝日新聞掲載分から確認していきたいと思います。

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59.1908年(明治41年) 6月 15日 「●横井小楠四十年祭」

全文引用↓

「昨十四日午前九時より芝紅葉館に催されたり神宮奉齋會の藤岡好古氏祭主となり町重の式典を擧げ引續き樓間伴馬金記等の囃子三番小早川野間等の狂言等あり階上の宴席に移り徳富猪一郎氏發起人總代として挨拶あり由利子爵の光岡三郎時代の追懐談曾我子爵松平正直男等の談話あり終て横井時雄氏の謝辭あり四時散會せり重なる列席者は前記數氏の外松平康荘侯清浦子爵堤正誼岩男三郎徳久恒範井上哲中島浮田三博士其他總數百餘名祭壇の左右に陳列されたる遺墨數十幅の中に豪懐欽す可く思はず観者を感奮せしめたるは松平春嶽侯の述懐も次せる左の一絶なりき
 斯道在懐三十年  向公一日始○天
 天行如此公看取  雨雪風雷發自然」

 ⇒徳富蘇峰を発起人総代として、芝紅葉館で催された「横井小楠四十年祭」の様子を描いた記事。横井小楠は1869年に没しているため、この催しは没後40年という区切りで行なわれた。

 「横井小楠四十年祭」の関係者・参加者として記事中に名前があがっている人物について、幾人か取り上げて紹介する。

 藤岡好古は、明治・大正期に活躍した国語学者神職。史料中にもあるように、神宮奉斎会で会長を務めた。(神宮奉斎会とは、伊勢神宮を崇敬の対象とし,皇祖の遺訓を奉戴し,神典を講究し,国体を宣明することを目的とした団体である。)

 史料中の「由利子爵」とは由利公正。関連史料→学究:徳富蘇峰(14)関連史料[13] - 学究ブログ(思想好きのぬたば)

 史料中の「曾我子爵」とは曾我祐準。詳細については「曾我祐準 | 近代日本人の肖像」。

 横井時雄は、明治・大正期に活躍したキリスト教徒・教育者・政治家で、横井小楠の長男として熊本に生れる。熊本洋学校在学中に、徳富蘇峰と同じく熊本バンドに参加。本郷教会などでの牧師生活や、同志社社長、衆議院議員など、活動領域は多岐に渡った。

 松平康荘(まつだいらやすたか)は、明治から昭和期に活躍した農学者・政治家。

 徳久恒範は、幕末期の佐賀藩士で、維新後は官僚・政治家として活躍した。

 史料中にある「井上哲中島浮田三博士」とは、記事の書かれた年月日をもとに考えると、「井上哲」は井上哲次郎、「浮田」は浮田和民である。「中島」は、同志社英学校第一期生の倫理学者・中島力造か、心理学者で札幌農学校で教鞭をとった経歴をもつ中島泰蔵の可能性が高い。参加者との人間関係や、横井小楠との関連で行くと、専門領域を「倫理学」とする中島力造の可能性が高い。 

 松平春嶽とは、福井藩において横井小楠の上司であった第16代越前福井藩主・松平慶永のことである(史料での「横井小楠四十年祭」の際は、すでに没している)。

 

*藤野好古関連書籍⇒近代の神宮と教化活動 (久伊豆神社小教院叢書11)

 松平春嶽関連書籍⇒幕末維新と松平春嶽

          松平春嶽 「幕末四賢侯」と称された名君 (PHP文庫)