学究:高嶋米峰(36)関連史料[35]

前回同様、朝日新聞掲載分から確認していきたいと思います。

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47.1923年(大正12年) 11月 22日 「新海氏が刻苦一年 聖観音の巨像 作製を終つて愈鋳造 總持寺寺畔に建立」

「彫刻家新海竹太郎氏は鶴見總持寺に託せられ昨年八月以來高さ一丈九尺の聖観音の像を彫刻中であつたが、漸く二三日前に全く賛成し愈鋳造工場に廻すべく二十日は漆喰像の最後の日として、總持寺から伊藤道海師今後の工事監督伊東忠太博士其他高島米峰杉村楚人冠氏等集り、仰ぎ見る巨像に別れを惜しんだ、此の観音は前總持寺管長石川素童師が主唱の下に明治聖帝の偉徳を記念し、同時に明治四十五年の同寺の移轉をも記念する爲で日暮里阿部工場で來年十月銅像に完成の上は總持寺境内大園林に安置する筈で○観音が三十三身に身を現じて衆生を濟度した事に因み正像十六尺蓮座三尺臺石二十四尺で三十三尺の高さとなり、信徒仰望の的となるであらう、新海氏は之を引受けて以來その製作には非常に苦心し、先づ従來の佛像にあり勝ちな不自然な所を排し、同時に寫生的な生々しさを去つて、見る者に自然に崇高な宗教的尊念を感ぜしむる爲、先づ奈良薬師寺の聖観其他中古の佛像に就いて十分研究し、それに印度アヂアンタやブーガーの寶冠等に渡つて研究した上取掛かつたもので、「かう言ふ巨像はある間隔を置いた均整に最も注意しました」と新海氏は苦心の跡を辿つてゐた「肩、顔特に額や瞳は苦しんだ」新海氏の勞は酬いられて、雜然としたアトリエの中に一種の靈感を漂はしてゐた」

⇒この記事は、明治天皇の偉徳記念&明治45年の總持寺移転の記念のために制作が目指された、聖観音銅像に関するものである。彫刻を任されたのは、新海竹太郎である。(新海については、かつて彼が制作し、第二回官展に出展された「不動」について、その作品の特徴を高嶋米峰の批評とともに掲載したことがある→学究:高嶋米峰(26)関連史料[25] - 学究ブログ(思想好きのぬたば)

 新海が彫刻を完成させ(漆喰像の状態)、次に鋳造工場にまわす段階に入ったことを記念して、次の段階の監督を務める伊東忠太高島米峰杉村楚人冠聖観音像の拝観にきている様子が描かれている。「仰ぎ見られる」聖観音は「巨像」と表現され、「信徒仰望の的」ともなるといわれる。

 記事中では、新海が仏像を作製する上で注意したことがあげられており、日本・インドの仏像史を参照しての、仏像の不自然さの解消&均整への追求の熱意を伺うことができる。そういう風に作られた「聖観音」には「霊感」が漂っていた、と記事は伝えている。

 

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