学究:徳富蘇峰(34)関連史料[33]

前回同様、朝日新聞掲載分から確認していきたいと思います。

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59.1908年(明治41年) 6月 15日 「●横井小楠四十年祭」

全文引用↓

「昨十四日午前九時より芝紅葉館に催されたり神宮奉齋會の藤岡好古氏祭主となり町重の式典を擧げ引續き樓間伴馬金記等の囃子三番小早川野間等の狂言等あり階上の宴席に移り徳富猪一郎氏發起人總代として挨拶あり由利子爵の光岡三郎時代の追懐談曾我子爵松平正直男等の談話あり終て横井時雄氏の謝辭あり四時散會せり重なる列席者は前記數氏の外松平康荘侯清浦子爵堤正誼岩男三郎徳久恒範井上哲中島浮田三博士其他總數百餘名祭壇の左右に陳列されたる遺墨數十幅の中に豪懐欽す可く思はず観者を感奮せしめたるは松平春嶽侯の述懐も次せる左の一絶なりき
 斯道在懐三十年  向公一日始○天
 天行如此公看取  雨雪風雷發自然」

 ⇒徳富蘇峰を発起人総代として、芝紅葉館で催された「横井小楠四十年祭」の様子を描いた記事。横井小楠は1869年に没しているため、この催しは没後40年という区切りで行なわれた。

 「横井小楠四十年祭」の関係者・参加者として記事中に名前があがっている人物について、幾人か取り上げて紹介する。

 藤岡好古は、明治・大正期に活躍した国語学者神職。史料中にもあるように、神宮奉斎会で会長を務めた。(神宮奉斎会とは、伊勢神宮を崇敬の対象とし,皇祖の遺訓を奉戴し,神典を講究し,国体を宣明することを目的とした団体である。)

 史料中の「由利子爵」とは由利公正。関連史料→学究:徳富蘇峰(14)関連史料[13] - 学究ブログ(思想好きのぬたば)

 史料中の「曾我子爵」とは曾我祐準。詳細については「曾我祐準 | 近代日本人の肖像」。

 横井時雄は、明治・大正期に活躍したキリスト教徒・教育者・政治家で、横井小楠の長男として熊本に生れる。熊本洋学校在学中に、徳富蘇峰と同じく熊本バンドに参加。本郷教会などでの牧師生活や、同志社社長、衆議院議員など、活動領域は多岐に渡った。

 松平康荘(まつだいらやすたか)は、明治から昭和期に活躍した農学者・政治家。

 徳久恒範は、幕末期の佐賀藩士で、維新後は官僚・政治家として活躍した。

 史料中にある「井上哲中島浮田三博士」とは、記事の書かれた年月日をもとに考えると、「井上哲」は井上哲次郎、「浮田」は浮田和民である。「中島」は、同志社英学校第一期生の倫理学者・中島力造か、心理学者で札幌農学校で教鞭をとった経歴をもつ中島泰蔵の可能性が高い。参加者との人間関係や、横井小楠との関連で行くと、専門領域を「倫理学」とする中島力造の可能性が高い。 

 松平春嶽とは、福井藩において横井小楠の上司であった第16代越前福井藩主・松平慶永のことである(史料での「横井小楠四十年祭」の際は、すでに没している)。

 

*藤野好古関連書籍⇒近代の神宮と教化活動 (久伊豆神社小教院叢書11)

 松平春嶽関連書籍⇒幕末維新と松平春嶽

          松平春嶽 「幕末四賢侯」と称された名君 (PHP文庫)