学究:徳富蘇峰(18)関連史料[17]

前回同様、朝日新聞掲載分から確認していきたいと思います。

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38.1903年(明治36年) 7月 26日 「●政友會の前途如何」

全文引用↓

 「政界の事情に精通する某政客、政友會の前途を観測して曰く政友會が政府黨となるか將た進歩黨と聯合して政府反對の旗を飜へすかは注目すべき問題なるが同會の現状より察すれば恐らく前者の方針に向つて進まんと欲する者多かるべし試みに想へ目下同會の中心點は何れの方面に在る乎を星亨氏逝てより關東派の勢力殆ど其地を拂ひ僅に殘存したりし所謂移民組の硬漢は妥協問題に激して一同退會し土佐派亦之が爲めに袂を聯ねて同會を去り北陸派の強硬分子も杉田定一氏の副議長就職以來俄然其鋒鋩を斂めたれば殘るは即ち九州の一派に過す而して其牛耳を取りつヽある松田正久氏の人と爲りは世人の知る所の如く又他の有力家たる長谷場純孝、高田露、野田卯太郎諸氏の如き昔日は知らず今日の境遇にては進歩黨と共に政府攻擊の地位に立つこと頗る困難ならん余は彼等の秘密を餘りに能く知り過ぎ居るを以て之を言ふを好まざるも近來彼等の智嚢とし相談相手と頼むは徳富猪一郎氏なり同氏の態度如何を知る者は彼等が今度如何なる態度に出づるかをも推想し得ん又所謂直參派なる者は曾て長く閥族の恩顧に浴し而して一方選擧區及び政友に其進退を掣肘さるヽの處なきを以て伊藤侯以下大頭株の意のまヽに動くこと従來の如くなるべしと云ふも蓋し甚しき無禮の言に非ざるべし併し余は以上の如く観察するも政友會員一致して政府の軍門に降伏するとは思はず彼の大阪、福井其他の同會支部に於て解散論非解散論殆んど相半ばして其方向に迷ふを見ば或は遠からず同會分裂の不幸に接するやも知るべからず左れば進歩黨の民黨合同策も亦強ち見込なきに非ざるべき歟但し政府にして果して其計畫通行政財政の大整理を斷行し一千六百萬圓の削減を遂ぐるときは政黨界の前途に大變動を生ずべく而して其結果如何は今日より豫測の限に非ず云々」

 ⇒上記の政治動向は、1901年(明治34年)6月2日から1906年明治39年)1月7日まで続いた第1次桂太郎内閣での話である。1900年に伊藤博文によって結成された立憲政友会の動向が、①政府党となるか、②進歩党と結託して反政府党となるか、という二路線で予測されている(執筆者は①の可能性が高いと予測)。関東派、土佐派、北陸派が様々な理由(例:星亨の死)により衰退傾向にある中で、九州派閥はどのような状況にあったかが示されている。また九州派閥において、徳富蘇峰は智嚢(相談役)の役割を果していたことも分かる。

  長谷場純孝は、西南戦争西郷隆盛側で戦った経験のある政治家。彼は1890年に実施された第1回衆議院議員総選挙により政治家となった。野田卯太郎については、過去の記事(⇒学究:徳富蘇峰(12)関連史料[11] - 学究ブログ(思想好きのぬたば))を参照。

 

立憲政友会関連書籍:政友会と民政党 - 戦前の二大政党制に何を学ぶか (中公新書)

           昭和戦前期立憲政友会の研究―党内派閥の分析を中心に

           近代日本の予算政治 1900-1914: 桂太郎の政治指導と政党内閣の確立過程