学究:高嶋米峰(42)関連史料[41]
前回同様、朝日新聞掲載分から確認していきたいと思います。
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57.1925年(大正14年) 3月 7日 「無警察に等しい不安な都市生活 識者は如何に見るか」
一部引用↓
「帝都の昨今は腕力沙汰の横行、強窃盗の頻出近年に比なく警察權の威力は全く地に落ちたるかを思はしめる、社會の上下一般を通して生活居住の不安日毎に濃厚となり又一方かくの如き無警察状態に放置しおく當局者の無反省に對する反感また上下一般を通して烈しくなりつゝある事實も否定出來ない、若し夫れ強窃盗の件數の多きと其の手段の残忍化しつつあることは茲に改めて記すまでもなく、市民享樂の場所たる公園が盗賊の集會所化し、畏くも宮殿下の邸内までが彼等の侵入に委ねらるゝに至つてゐる、この無秩序、無警察に等しき現下の状態と風潮を世人は果して何と見るか」
「暗黑時代の前兆 大暴力時代の出現か〔高島米峰氏の談〕
言論をゆゐ一の機關とする議會においてさへ、其言論の力が認められず、暴力によつて事を決するといふやうなことがしばしば繰り返されて居る今日である一方暴力團體に對する警察力の微弱さ、ある時にはそれがほとんど働かされてゐないとさへ思はされる程の甚しさである、時たまさうした團體を謳つて警察仕事の便宜を圖ることがあるらしいとはよく聞くことであるが斯うした状態を通じては彼等が横行する理由もある程度までは認められるが、要するに暴力が言論とか國防に代つて事を爲すに至れば國家は危いと云はねばなるまい、此調子ではあるひはイタリーのムツソリニーの様に國家的に暴力政治を制定するやうなことになるのではなからうか、即ち大暴力を以て現在横行の暴力を壓倒することであるが、それには法律も宗教も教育も、もう何んの力もないものになり、文明は逆轉して考へるだにぞつとするやうな暗黑時代の襲ひ來る様が想像される」
⇒最初の引用文では、帝都(東京府)が暴力の横行により、無警察状態になっている惨状が示されている。市民の憩いの場である公園が盗賊の集会所となったり、宮殿下の邸内までが強盗の侵入に晒されるなど、惨状の実例もあげられている。これに対する有識者の意見として、次の引用文(高嶋米峰のコメント)がある。
高嶋は暴力の横行は、なにも生活空間だけの問題ではなく、言論機関である議会でも生じていると指摘する。次に、最初の引用文と同様、警察力の弱さが語られ、このままでは言論・国防を暴力が抑え込むという状況になりかねない、この流れはイタリアでムッソリーニが国家的に暴力政治を制定することになったのと軌を一にしている、と警告している。そのような暴力政治の時代においては、もはや法律も宗教も教育も無力であり、まさに大暴力時代・暗黒時代だと言える、とする。
上記の文章中で、高嶋は何等の直接的な解決案を提示していないが、政府が一つの暴力を抑え込むために、また別の(更に大きな)暴力を設定すれば、その暴力が暴走して、本来取り締まりの対象でなかったものにまで攻撃が向けられるようになる。この暴力の連鎖からどうにかして抜け出すことが、高嶋の望んでいたことだと考えられる。
*「帝都」関連書籍:貧民の帝都 (文春新書)
学究:徳富蘇峰(42)関連史料[41]
前回同様、朝日新聞掲載分から確認していきたいと思います。
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67.1908年(明治41年) 11月 18日 「●ヘヂン博士の昨日(志賀矧川氏の午餐會)」
全文引用↓
「スヱン、ヘヂン博士は昨朝芝公園に遊び次で大倉邸の美術品を縦覧したるが六百年前西藏にて作られたる普賢菩薩の像を見るや直に其西藏の美術品たるを明言せしより何れも博士の烱眼に感じ合へり斯くて靈南坂なる志賀重昂氏の邸に入り徳富蘇峰、巖谷小波、跡見花蹊、リード博士、新渡戸博士夫人等十二名と共に日本食の晝餐を受けしが其能く箸を用ひ味噌汁を啜るは流石に大探檢家たるに恥ぢずと云ふべし博士は豫て約する所あることとて此折大隈伯より自動車を差向くべき旨電話ありしも博士は「其輕快は之に及ぶものなけれど雜沓の市街にては小兒を傷くることあるを奈何せん」と語りて自動車を辭し馬車に搭じて伯を訪ひ少時談話の後、早稻田大學に赴きて簡單なる講演をなし午後四時半より東京帝國大學にて前夜に續き中央亞細亞の探檢に關する講演をなせるが來聴者は各國の大公使を首め内外の貴紳及學生なりき」
⇒11月17日のスヱン・ヘヂン博士の動向の模様を示した記事。博士の氏名の表記については、スヴェン・ヘディンが現在では一般的で、19世紀後半から20世紀初めにかけて中央アジアを探検したスウェーデン出身の地理学者として知られる。ロシア皇帝ニコライ2世や浄土真宗本願寺派第22世法主・大谷光瑞の支援を受けて、探検活動を行った。
ヘディンの日本巡りの内容を、以下に簡単に纏める。
①大倉邸で美術品を鑑賞(普賢菩薩像など)。
②志賀重昂邸で、徳富蘇峰、巖谷小波、跡見花蹊、リード博士、新渡戸博士夫人ら12名と共に昼食(日本食)を食べる。箸を器用に使って、味噌汁を啜っていたようだ。
③市街で小さい子供に怪我を負わせる危険性を考慮して、自動車ではなく馬車を使って、大隈重信のもとへ。
④早稲田大学で講演。
⑤東京帝大で講演。
上記の内、跡見花蹊については、学祖・跡見花蹊 | 跡見学園の歩み | 跡見学園を参照。
*スヴェン・ヘディン関連書籍:大谷光瑞とスヴェン・ヘディン 内陸アジア探検と国際政治社会
跡見花蹊関連書籍:跡見花蹊: 女子教育の先駆者
学究:高嶋米峰(41)関連史料[40]
前回同様、朝日新聞掲載分から確認していきたいと思います。
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全文引用↓
「投稿薄謝進呈 ▽△高島米峰先生の悲観して申さるゝことには「父さんの話なんか聞いたつて詰まらないや、どうも子供からこんな風に云はれるところを考へて見ると、もう私の未來も餘り芳しくないやうで」(佐々木新三郎)
▽△或驛の前、夕刊賣と職人の話「おぢさん夕刊買つてお呉れよ」「何だい、昨日買つてやつたばかりぢやないか」――(のぶを)」
⇒見ての通りの「小話」である。一つ目の「▽△」は、佐々木新三郎が高嶋米峰から聞いた話。高嶋米峰は自身の子に「父さんの話なんか聞いたってつまらない」と言われたことで、将来への不安を吐露している。ただそれだけの話である。
次の「▽△」は、夕刊売りと職人の話で、日刊で販売されていることに目を向けることで、クスッと笑える話となっている。とはいっても、これもあくまで小話である。
*家父長制関連書籍:象徴としての女性像 ──ジェンダー史から見た家父長制社会における女性表象
学究:徳富蘇峰(41)関連史料[40]
前回同様、朝日新聞掲載分から確認していきたいと思います。
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66.1908年(明治41年) 11月 3日 「●説文會臨時大會」
一部引用↓
「一昨日上野公園東照宮社務所にて開きたる説文會大會は天氣の豫想外に快晴なりしが如くに豫期以上の盛況を呈したり陳列品は漢字研究に要する古書舊籍篆○文拓本の類五百餘點に達し來會者は土方久元伯、白鳥、市村、狩野、木村、星野、大槻、井上(賴圀)、坪井、小杉、元良の十博士和田英松、市島謙吉、土屋弘、小柳司氣太、河田羆、關根正直、大野酒竹、徳富猪一郎、赤堀又次郎、大槻如電、日下寛、丸山正彦氏等漢字研究に趣味を有せる學者識者の萃を抜きて無慮四百六十餘人に及び就中米國人ブイ氏ミツトアー氏が仔細に陳列品を展観し居たりしは異彩なりき豫定の如く午前中に許慎棭齋以下説文研究者の神式祭奠を終り午後には高田忠周氏十數年の丹精によりて研究し得たる結果に就き二時間以上に渉る精博なる講話をなし重野文學博士亦漢字研究の必要なる旨を説きて點燈頃閉會せり(以下、省略)」
⇒11月1日に開催された「説文會大會」の様子を伝えた記事。この大会では、漢字研究において重要となる史料群が陳列されたようである。よって、大会への来会者には、多くの「漢字研究に趣味を有せる學者識者」が名を連ねた。米国人も展観したようである。また、明治から昭和期に活躍した説文学者で、『五體字類』の監修者として知られる高田忠周による、二時間以上にわたる研究発表もなされたようである。最後に、日本における実証主義歴史学の提唱者・重野安繹の「漢字研究の必要」論が語られた。
ちなみに「説文」とは、『説文解字』の略で、中国最古の字書。後漢の許慎(記事中にも名前がある)の著作である。内容は、漢字を扁 (へん) と旁 (つくり) によって分類し、その成り立ちと字義を解説したものとなっている。
記事中の小柳司氣太(おやなぎしげた)は、明治から昭和期に活躍した漢学者で、大東文化大学教授。彼が編纂した『新修漢和大字典』は、後の漢学者に影響を与えた。
河田羆(かわだたけし)は、幕末から大正期にかけて活躍した地理学者。正院や内務省で地理調査を進め、『日本地誌提要』『大日本国全図』などを刊行した。既述した重野との共著『支那疆域沿革図』『支那疆域沿革略説』もある。
*重野安繹関連書籍:重野安繹と久米邦武―「正史」を夢みた歴史家 (日本史リブレット人)
説文解字関連書籍:漢字の成り立ち: 『説文解字』から最先端の研究まで (筑摩選書)
学究:高嶋米峰(40)関連史料[39]
前回同様、朝日新聞掲載分から確認していきたいと思います。
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55.1924年(大正13年) 8月 19日 「探してゐるもの」
全文引用↓
「 隠れた材料を 姉崎正治
此夏は豊後でキリシタン迫害の跡を少々あるいて來ましたが、特に島原亂平定後のキリシタン處分に關する書類や遺物を諸方面に求めてゐるのです、まだ隠れた方面に材料が残つてゐると考へられますから、御紙の讀者中心當りのある方は知らせていただけば大幸。
一休和尚の子 紹偵 高島米峰
今から二十一年前、僕は、生れて始めて、著述とふものを公にした。それは『一休和尚傳』といふのである。ところが、一休に一人の子があつて、その名も年齢も、行實の一端もわかつて居るのであるが、その生涯の精しいことが書いてありさうな、菅原和長の『明應三年記』といふものが、手に入らないので、困つて居た。然るに、その『一休和尚傳』の紙型が、昨年の震火災で焼失したのを、先月改版して發行する場合、依然として、二十一年前の「探しもの」が、手に入らなかつたことを、遺憾としたのである。敢て、大方の高敎を仰ぐ」
⇒この記事は、姉崎正治「隠れた材料を」と高嶋米峰「一休和尚の子 紹偵」の二部で構成されている。記事名にもあるように、姉崎と高嶋が各々「探してゐるもの」について語る。
まず姉崎は、1924年の夏に豊後のキリシタン迫害の跡をたずねたことを話し、島原の乱平定後のキリシタン処分に関係する書類や遺物を探していることを熱弁する。「御紙の讀者中心當りのある方は知らせていただけば大幸」と、キリシタン処分関連史料を求めている姿勢には、一学者として熱心さが感じ取れた。
次に高嶋は、かつての処女作『一休和尚傳』に触れて、その中で一休和尚の子・紹偵について詳しく記述するための史料・菅原和長『明應三年記』が、未だに見つけられず困っていると語る。1923年の関東大震災を契機として、『一休和尚傳』を改版するにあたって、どうしても『明應三年記』が必要だという。姉崎の記事と同様、研究上必要となる史料への強い思いが伝わってくる内容であった。
ちなみに、高嶋米峰『一休和尚傳 【改修版】』(明治書院、1942)の内容を確認してみると、以下のような文章がある。
「『大日本史』や、『野史』にも、菅原和長の『明應三年記』などを援いて、紹偵の事を書いてあるが、矢張りこれ以上の事は記してない。若し『明應三年記』といふものでも見たら、多少得るところもあるであらうが、遺憾なことには手に入らない。」(P208)
結局、菅原和長『明應三年記』は入手できなかったようだ。
高嶋米峰、残念!。
*日本のキリシタン関連書籍:消された信仰: 「最後のかくれキリシタン」--長崎・生月島の人々
かくれキリシタン: 長崎・五島・平戸・天草をめぐる旅 (とんぼの本)
一休和尚関連書籍:日本人のこころの言葉 一休
学究:徳富蘇峰(40)関連史料[39]
前回同様、朝日新聞掲載分から確認していきたいと思います。
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65.1908年(明治41年) 10月 19日 「●吉田松陰紀念會」
全文引用↓
「帝國教育會の主催に係る吉田松陰先生五十年紀念大會は十七日午後一時東京商業學校講堂にて擧行す大會の發起委員たる朝野知名の士既に二百人に上り招待を受けて至れる先生の遺族其他亦數百人青年學生の傍聴者を併せて會する者無慮千人以上に及び場の正面に先生の肖像を掲げ毛利兩家より寄贈の資盛を供へ根本正氏先づ開會の式辭を次に帝國教育會長辻新次氏祭文を朗讀し小學女生徒の紀念唱歌(文學博士井上哲次郎氏作)合唱ありし後頌徳演説に移り小松原文相、乃木大將、井上文學博士、三島中洲翁、嘉納治五郎氏、徳富猪一郎氏の熱烈なる演説ありて午後五時式を閉ぢ聴衆は別室に飾付し數十輻の先生遺墨を展観し遺族及被招待者は茶菓の饗應を受たり」
⇒1908年10月17日に、帝国教育会の主催で開かれた「吉田松陰先生五十年紀念大會」の模様を伝えた記事。吉田松陰は1859年11月21日に亡くなっていることから、没後50年を紀念した催しであると言える。
大会の発起委員や先生(吉田松陰)の遺族、青年学生など、総計1000人以上の参会者がいたと記事には書かれている。会場の正面には吉田松陰の肖像が掲げられ、その前に毛利家からの寄贈品を供える。
大会の流れを以下に簡単に纏める。
①根本正の開会の式辞。
②帝国教育会長・辻新次の祭文朗読。
④小松原文相、乃木希典、井上哲次郎、三島中洲、嘉納治五郎、徳富蘇峰による演説。
⑤午後五時に閉式
*閉式後、参加者は別室に飾っている数十輻の先生遺墨を拝観、遺族及被招待者は茶菓の饗應を受ける。
以上の内容から、幾人かの人物をとりあげて解説を加える。
開会の式辞を述べた根本正は、明治・大正期に活躍したキリスト教者・政治家(自由党→政友会)。バーモント大学卒業。安藤太郎と日本禁酒同盟を結成し顧問となり、義務教育無償化や未成年者飲酒禁止法成立などを果たした人物である。
上記②の辻新次については「学究:徳富蘇峰(15)関連史料[14] - 学究ブログ(思想好きのぬたば)」を参照。
上記④の「小松原文相」とは、小松原英太郎(こまつばらえいたろう)を指す。明治・大正期に、記者・内務官僚・大阪毎日新聞社長・文相(第二次桂内閣)など多方面にわたって活動した人物。
同じく④の三島中洲(みしまちゅうしゅう)は、日本の漢学者。山田方谷や斎藤咄堂のもとでの朱子学・陽明学・古学の学びを出発点として、東京裁判所や新治裁判所での判事や東京大学文科大学の古典科教授などを務めた。また、漢学塾二松学舎を創立したことでも知られている。
*吉田松陰関連書籍:吉田松陰『留魂録』 (いつか読んでみたかった日本の名著シリーズ)
三島中洲関連書籍:最後の儒者
学究:高嶋米峰(39)関連史料[38]
前回同様、朝日新聞掲載分から確認していきたいと思います。
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54.1924年(大正13年) 8月 3日 「學藝 旅・読書 自然を征服 高島米峰」
一部引用↓
「♢境遇が許さないので、まだ、探勝旅行風流旅行の經驗は、持合せて居ないがただ時々、講演に招かれて、地方に出かけることがある位。一昨年、岡山縣の夏期大學に招かれた時、高梁町の臨時講演で、九十八度といふ暑熱の中に立ち、三時間半といふ長講を一席に辯じ上げ、袴の裾から雫が垂れる程汗をかき、體中の水分が、悉く出發したやうな感じをしたことがあるが、それでも、人と自然とを、立派に征服し得たやうな、誇りと快さとを、満喫せずには居られなかつた。
♢夏の讀書は、組織的なものよりは、斷片的で、しかも含蓄の多いものを、選ぶべきである。理由は略するが、まづ、『論語』『碧巌録』『嘆異鈔』など。」
⇒高嶋米峰が自身の旅・夏の読書について語った記事。
米峰は、これまでに探勝(名勝の地を見に行くこと)旅行や風流旅行をした経験はなく、講演に招かれた際に地方に出向くことが、旅行に近い経験であると語る。数多くの講演をこなしてきた高嶋米峰らしい経験談であると言える。
今回の記事では、岡山県の夏期大学で三時間半の講演に挑んだときの、汗が滴る暑さとそれを通して感じた達成感がいきいきと語られている。高嶋米峰の講演後の心境を伝える貴重な発言である(⇒「人と自然とを、立派に征服し得たやうな、誇りと快さとを、満喫せずには居られなかつた」)。
次に「夏の読書」についてであるが、高嶋米峰は組織的な(⇒理論的な)書物よりも、断片的で含蓄のある書物を薦めている。これは高嶋が「理論的な書物」を読むことを好まなかったというよりも、「夏」という季節において向き合う書物としては適さないと判断したと思われる。例としてあげた書物には、『論語』『碧巌録』(へきがんろく)『歎異抄』があった。
*『論語』関連書籍:論語 (岩波文庫 青202-1)
『碧巌録』関連書籍:『碧巌録』を読む (岩波現代文庫)
『歎異抄』関連書籍:歎異抄 (岩波文庫 青318-2)