学究:徳富蘇峰(39)関連史料[38]

前回同様、朝日新聞掲載分から確認していきたいと思います。

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64.1908年(明治41年) 10月 5日 「●伊國鴻爪(七) △米國大使の傳言 楚人冠」

「日本に居る頃は外國公使中の最年少者として知られてゐたグリスカム君が今伊太利駐箚の米國大使として羅馬に來て居る、と言ふことを昨夜初めて聞いたので今朝は朝餐がすむと其まヽ馬車を飛ばせた」

「執行君(註・執行弘道)への傳言は僕慥に之を命の通り傳へたが其外今に傳へずに居るのが大分ある徳富蘇峰君へといふのも其の一だが外に伊藤公爵と東郷大將とに宜しくといふのもあつた」

⇒かつて特命全権公使として日本に駐在していたロイド・グリスカム(在職:1903-1905年)と徳富蘇峰の関係性が垣間見える記事。在職時は、日本にいる外国公使の中で最年少者であったことが示されている。

 この記事では、グリスカムがイタリア駐在の米国大使としてローマに来ていることが書かれ、そこに記事執筆者・杉村楚人冠が足を運んでいる。そこで外交官・執行弘道(しゅぎょうひろみち)と合流し、グリスカムからの伝言を執行を通して受け取った。その伝言先には、徳富蘇峰伊藤博文東郷平八郎がいたという。一米国大使と蘇峰との間にどのような繋がりがあったのか。国際情勢の中の徳富蘇峰の姿勢・位置づけについても調べていく必要がある。

 上記で取り上げた執行弘道は、種々の美術関係組織と深く関わっていたことで知られる人物で、第3回内国勧業博覧会、シカゴ万国博覧会パリ万国博覧会などで、日本美術部門の審査員や鑑査官を務めた。

 

内国勧業博覧会関連書籍:帝国の視線―博覧会と異文化表象

 万国博覧会関連書籍:EXPO'70 驚愕! 大阪万国博覧会のすべて

           幻の万博:紀元二千六百年をめぐる博覧会のポリティクス

           図説 万博の歴史 1851-1970 (Shogakukan Creative Visual Book)

学究:高嶋米峰(38)関連史料[37]

前回同様、朝日新聞掲載分から確認していきたいと思います。

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53.1924年(大正13年) 4月 28日 「六百の聴衆悉く 國字論者となつて 新井白石二百年祭の記念學術講演會」

全文引用↓

「單に學○たるに止まらず、詩人として、また同時に政治家としての材幹を備へて徳川時代中興の業蹟をつんだ我が新井白石がこの世を去つてから正に二百年となるを記念し、日本ローマ字會主催、本社後援の學術講演會が、廿七日午後零時半から丸之内商工奨勵館で開かれた、聴衆六百、堂に滿ち婦人達も多數に見受けた、まづ福永海軍少佐の開會の挨拶に續いて上田文學博士の「白石とローマ字」あり、我國最初のローマ字論者としての卓見と、漢學者にして國語尊重の叫びを擧げた快心事を説かれた、次いで土岐本社學藝部長は「白石からヘボンへ」のローマ字論の變○進化を説き、日本式ローマ字がその発展の歸結であることを述べた、更に穂積法學博士は「史料としての川柳」を、ローマ字書きにした印刷物を與へられ、聴衆と共にローマ字川柳を讀みながら、面白く徳川時代に於ける離婚訴訟の説明をした最後に老軀を壇上にはこんだ田中舘理學博士は「現代科學とローマ字」との関係を述べ、ローマ字は既に我國社會の實生活の一部となつてゐる事を元氣溢るゝ調子で喝破された、終つてローマ字の歌を合唱し、聴衆悉く愉快な國字論者となつて散會した、午後六時より辯士及びローマ字會員、聴衆六十名餘、京橋千代田館内富士見軒で懇談晩餐會あり、田中館、穂積、池野、中村、丘諸博士、永地畫伯、高島米峰、福永恭助氏等の顔ぶれも見られ、卓上演説に賑つて九時半散會した」

江戸幕府6代将軍・家宣、7代将軍・家継の時世に幕政を補佐し、『西洋紀聞』『読史余論』などを著した人物として知られる新井白石の没後200年を記念した学術講演会の模様を伝えた記事。講演会は、日本ローマ字会主催、朝日新聞社後援のもと行なわれた。

 会は以下のような流れで進行した。(各講演の内容を簡単に示す。)

①福永海軍少佐(福永恭助)による開会の挨拶

②上田萬年「白石とローマ字」:白石を「我國最初のローマ字論者」であり、「国語」の重要性を主張した学者として評価

③土岐朝日新聞社学芸部長「白石からヘボンへ」:「日本式ローマ字」を評価

穂積陳重(ほづみのぶしげ)「史料としての川柳」:ローマ字書きじた川柳を通して、徳川時代の風俗問題を見つめる

⑤田中舘愛橘(たなかだてあいきつ)「現代科学とローマ字」:ローマ字が日本社会の実生活の一部となっていることを説く

⑥ローマ字の歌を合唱

⑦散会

⑧講演者、ローマ字会員、聴衆約六十名が集い、京橋千代田館内富士見軒で懇談晩餐会を開く

 学術講演会に参加している人物の中から幾人か取りあげたい。

 上記の①にある福永恭助は昭和期の作家で元・海軍少佐。自身の軍事経験を踏まえた海洋小説を著す。今回福永は国語国字問題に強い関心のあったことから、「ローマ字」についての議論がなされる学術講演会に参加したと思われる。

 次に上記の⑤にある田中舘愛橘。彼は岩手県生まれの地球物理学の確立者、東京帝国大学教授。東京帝国大学航空研究所の設立や日本式ローマ字・メートル法の普及に尽力した人物としても知られる。

 

新井白石関連書籍:折りたく柴の記 (中公クラシックス)

          新井白石の政治戦略―儒学と史論

          新井白石「読史余論」 現代語訳 (講談社学術文庫)

 穂積陳重関連書籍:続法窓夜話 (岩波文庫 青 147-2)

          吉野作造と上杉愼吉―日独戦争から大正デモクラシーへ―

学究:徳富蘇峰(38)関連史料[37]

前回同様、朝日新聞掲載分から確認していきたいと思います。

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63.1908年(明治41年) 9月 28日 「●國木田獨歩追悼會」

全文引用↓

矢野龍溪徳富蘇峰田山花袋、小栗楓葉、滿谷國四郎、齋藤弔花、田村江東諸氏の發起にて來る三十日午後一時より神田青年會館に於て故國木田獨歩氏の追悼會を開き矢野龍溪徳冨蘆花、植村正久、竹越與三郎、山路愛山島村抱月島崎藤村、柳田國四郎、田山花袋、小栗楓葉諸氏の追悼演説、北村季晴、同初子、天野愛子三氏の西洋音樂、鈴木皷村氏の箏曲は共に獨歩の新體詩を作曲せしものにて尚當日滿谷國四郎、小杉未醒兩畫伯揮毫の紀念繪葉書を來會者に頒つ由(會費は廿錢)」

⇒今回は「國木田獨歩追悼會」が9月30日に催されることを伝える記事。

 ブログでは、学究:徳富蘇峰(36)関連史料[35] - 学究ブログ(思想好きのぬたば)の中で、「故國木田獨歩氏の葬儀」について触れている。

 この追悼会は、矢野龍溪徳富蘇峰田山花袋らを発起人として開催され、徳冨蘆花山路愛山島崎藤村らによる追悼演説、西洋音楽演奏、箏曲演奏などが行われる。また、追悼会の参加者には、「滿谷國四郎、小杉未醒兩畫伯揮毫の紀念繪葉書」が配られたようである。

 発起人メンバーの内、齋藤弔花(さいとうちょうか)は明治から昭和期に活躍した文筆家。神戸新聞社などで記者活動をするかたわら、『独歩と武蔵野』(晃文社、1942)や『蘆花と作品』(晃文社、1943)などの作品を著した。

 満谷国四郎と名を並べる小杉未醒については、小杉放庵 :: 東文研アーカイブデータベースを参照。

 

小杉未醒関連書籍:新訳絵本水滸伝

 北村季晴関連書籍:信濃の国〜信州宝歌 / カラオケ入り

          

 

 

学究:高嶋米峰(37)関連史料[36]

前回同様、朝日新聞掲載分から確認していきたいと思います。

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48.1924年(大正13年) 1月 31日 「最近の感想 一夫一婦 高島米峰

全文引用↓

「夫婦は人倫の端緒で、一夫一婦は人類の常道である。今吾等の皇太子殿下が、結婚の禮を行はせられたのは、正に吾等にその範を垂れ給ふものである。従つて、吾等は、ただ、お目出度いと、喜び合ふだけでは滿足が出來ない。吾等は、何か、この場合、最も意義ある事業を成遂げて、この喜びを、永年に記念し、奉りたい。
 曰く公娼、曰く蓄妾、凡そ、斯くの如き惡風、皆是、人倫を紊り、人道を壌るところの存在である。この際、若し、その一つでも撲滅し得るならば、これに勝る記念事業は、またとあるまい。」

⇒1923年(大正12年)12月27日に生じた虎ノ門事件などを経た裕仁親王が、1924(大正13年)に久邇宮邦彦王の第一王女・良子女王との間で行なった結婚に対する高嶋米峰の感想・意見を述べた記事。

 高嶋は、上記の結婚を「一夫一婦」の象徴的な例として取り上げ、ただ「お目出度い」と喜ぶだけではなく、これを契機として「意義ある事業」を成すべきだとしている。ならばその「意義ある事業」とは何か。

 これまで高嶋に関する記事を追ってきた中で、最も活動的な運動に「廃娼運動」がある。ここから皇太子殿下の結婚を、「公娼、蓄妾」を廃止し、悪風・悪慣習を取除く活動の契機にしようというのが、高嶋の主張である。

 上記の議論には、当時多くの国民から尊敬の念を持たれていた皇太子(皇族)の存在を利用しようとする魂胆が透けて見える。高嶋自身が、皇族や天皇というものについて、どのような認識を持っていたのかも、今後は考えていきたい。

 

裕仁親王関連書籍⇒【復刻版】昭和天皇 東宮御外遊記―1921年皇太子裕仁親王の訪欧記 (響林社文庫)

          昭和天皇 (岩波新書)

          昭和天皇の終戦史 (岩波新書)

          昭和天皇―「理性の君主」の孤独 (中公新書)

学究:徳富蘇峰(37)関連史料[36]

前回同様、朝日新聞掲載分から確認していきたいと思います。

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62.1908年(明治41年) 7月 23日 「●各地方新聞俱樂部」

「各地方有力新聞なる伊勢、いばらき、北海タイムス、東北新聞、河北、横濱貿易、神戸又新、高地、静岡、下野、新愛知、信毎、九日各社の發起に係る地方新聞俱樂部發會式は廿一日午後一時より向島札幌ビール庭園内に擧行し會長大橋賴謨氏の挨拶に對し來賓總代として杉田定一氏の謝辭あり夫れより大隈板垣の兩伯、平田、大浦の兩大臣、徳富、大岡 園城寺、長谷場、大石、臼井、島田、仙石諸氏の祝詞又は演説あり餘興としては落語、浪花節及び模擬店の設備あり尚ほ市内各商店よりの寄贈品を福引として分配し頗る盛會なりき來會五百餘名」

北海タイムスや横浜貿易などの地方の有力新聞が協同して結成された「地方新聞俱樂部」の発会式の様子を描いた記事。俱楽部の会長は、大橋頼摸(おおはしらいも、記事中では「大橋賴謨」となっている)。大橋は、静岡県会議員、政友会所属の衆議院議員を務めた政治家で、上記の「地方有力新聞」にあがっている「静岡新報(静岡新聞の前身)」の社長職にも就いている。

 来賓総代の杉田定一に関しては、「学究:徳富蘇峰(18)関連史料[17] - 学究ブログ(思想好きのぬたば)&杉田定一 | 近代日本人の肖像」を参照。

 地方新聞俱楽部発会式では、大隈重信板垣退助、平田東助(⇒平田東助 | 近代日本人の肖像)、大浦兼武(⇒大浦兼武 | 近代日本人の肖像)ら、政治関係者の名が多く並ぶ。彼らによる祝詞・演説が行われた後は、落語・浪花節・模擬店設備・市内各商店提供物を品物とした福引で盛り上がった様である。

 

静岡新聞関連書籍⇒静岡県歴史年表

 平田東助関連書籍⇒日本立法資料全集 別巻 715 改正市制町村制精義 (地方自治法研究復刊大系)

 大浦兼武関連書籍⇒民権闘争七十年 咢堂回想録 (講談社学術文庫)

 

学究:高嶋米峰(36)関連史料[35]

前回同様、朝日新聞掲載分から確認していきたいと思います。

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47.1923年(大正12年) 11月 22日 「新海氏が刻苦一年 聖観音の巨像 作製を終つて愈鋳造 總持寺寺畔に建立」

「彫刻家新海竹太郎氏は鶴見總持寺に託せられ昨年八月以來高さ一丈九尺の聖観音の像を彫刻中であつたが、漸く二三日前に全く賛成し愈鋳造工場に廻すべく二十日は漆喰像の最後の日として、總持寺から伊藤道海師今後の工事監督伊東忠太博士其他高島米峰杉村楚人冠氏等集り、仰ぎ見る巨像に別れを惜しんだ、此の観音は前總持寺管長石川素童師が主唱の下に明治聖帝の偉徳を記念し、同時に明治四十五年の同寺の移轉をも記念する爲で日暮里阿部工場で來年十月銅像に完成の上は總持寺境内大園林に安置する筈で○観音が三十三身に身を現じて衆生を濟度した事に因み正像十六尺蓮座三尺臺石二十四尺で三十三尺の高さとなり、信徒仰望の的となるであらう、新海氏は之を引受けて以來その製作には非常に苦心し、先づ従來の佛像にあり勝ちな不自然な所を排し、同時に寫生的な生々しさを去つて、見る者に自然に崇高な宗教的尊念を感ぜしむる爲、先づ奈良薬師寺の聖観其他中古の佛像に就いて十分研究し、それに印度アヂアンタやブーガーの寶冠等に渡つて研究した上取掛かつたもので、「かう言ふ巨像はある間隔を置いた均整に最も注意しました」と新海氏は苦心の跡を辿つてゐた「肩、顔特に額や瞳は苦しんだ」新海氏の勞は酬いられて、雜然としたアトリエの中に一種の靈感を漂はしてゐた」

⇒この記事は、明治天皇の偉徳記念&明治45年の總持寺移転の記念のために制作が目指された、聖観音銅像に関するものである。彫刻を任されたのは、新海竹太郎である。(新海については、かつて彼が制作し、第二回官展に出展された「不動」について、その作品の特徴を高嶋米峰の批評とともに掲載したことがある→学究:高嶋米峰(26)関連史料[25] - 学究ブログ(思想好きのぬたば)

 新海が彫刻を完成させ(漆喰像の状態)、次に鋳造工場にまわす段階に入ったことを記念して、次の段階の監督を務める伊東忠太高島米峰杉村楚人冠聖観音像の拝観にきている様子が描かれている。「仰ぎ見られる」聖観音は「巨像」と表現され、「信徒仰望の的」ともなるといわれる。

 記事中では、新海が仏像を作製する上で注意したことがあげられており、日本・インドの仏像史を参照しての、仏像の不自然さの解消&均整への追求の熱意を伺うことができる。そういう風に作られた「聖観音」には「霊感」が漂っていた、と記事は伝えている。

 

伊東忠太関連書籍:明治の建築家 伊東忠太 オスマン帝国をゆく

          日本の建築と思想―伊東忠太小論

 總持寺関連書籍:總持寺の歴史<増補新版>

         曹洞宗の葬儀と供養 おくる

学究:徳富蘇峰(36)関連史料[35]

前回同様、朝日新聞掲載分から確認していきたいと思います。

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61.1908年(明治41年) 6月 30日 「●故國木田獨歩氏の葬儀」

全文引用↓

「故國木田獨歩氏の葬儀は昨日午前十時より青山齋場に於て執行大導師中里日勝師の引導に次で田村三治氏は故人の履歴を朗讀し徳富蘇峰田山花袋、早稻田學友總代島村瀧三郎 龍土會總代中澤重雄、舊獨歩社總代滿谷國四郎、齋藤謙藏諸氏の弔辭あり夫れより令息虎雄未亡人治子長女貞子令弟収二氏を始め親戚友人等順次焼香し式終りたるは正午頃なりき會葬者は各方面各階級の人士を通じて四百餘名に及びたり」

⇒6月29日に開かれた国木田独歩の葬儀の様子を伝えた記事。

 引導を担ったのは、日蓮宗の僧侶・中里日勝である。中里の主なる経歴については、疋田精俊氏が雑誌『智山学報』(32巻、1983)に投稿した論稿「明治仏教の世俗化論― 中里日勝の寺族形成―」(P169-190)が参考になる。以下に、該当箇所を引用する。

安政六年(一八五九)九月一七日一橋家直参の家の次男として生れ、明治四年(一八七一)四月八日一三歳のとき真間弘法寺高松日棺について得度し弘立という。同一七年二六歳で小石川蓮華寺住職となり、 同一九年二八歳で日蓮宗大教院卒業する。同二〇年三月録司補、同年一〇月二九歳のとき東京神田区鈴木町成立学校で英語学を学び、同二二年一月三一歳で英人ウィリアム・マンソンについて英会話を修習、同年赤坂円通寺へ転住職し、同二四年四月中村敬宇・長三洲より書道や漢詩を学ぶ。同二五年一〇月三四歳で第一区大檀林助教授、同二七年に赤坂愛敬女学校設立して校長就任、同三〇年八月三九歳で円通寺内の小檀林長就任し、同四〇年一一月四九歳のとき福田会育子院常務、同四四年五三歳で本山玉沢妙法華寺住職、大正九年聖誕七百年奉賛会顧問、勅額奉戴奉行員、大正年間には北京に東洋文化研究所設立し更に玉川に日勝庵を建立、昭和六年一〇月円通寺境内に図書館日勝文庫を設立して仏・漢書等約一万四千冊蔵することにより文部省及び宗務院から表彰される。 同年七月身延奉送顧問や赤坂仏教会長就任、同一〇年八月七七歳で全国仏教大会顧問、同一八年八五歳を以て遷化する。かように宗門では重鎮的存在であり、また教育や社会面でも功績がありかなり名声を博した。」(P170)

  葬式にて国木田独歩の履歴を朗読したのは田村三治。田村は明治から昭和初期に活躍した新聞記者。東京専門学校在学中『文壇』の同人となり、国木田独歩と親交を結ぶ。その後、中央新聞社に入社、のち主筆となる。独歩の死後、田山花袋らと国木田独歩の日記『欺かざるの記』を校訂した。

 弔辞をよんだ人物としては、満谷国四郎に注目。詳細はOHARA MUSEUM of ART ― 作品紹介>主な作品の紹介>日本の絵画と彫刻>満谷国四郎を参照。

 会葬者は400余名に及んだ。

 

国木田独歩関連書籍:編集者国木田独歩の時代 角川選書

                                       国木田独歩 (Century Books―人と作品) 

 田山花袋関連書籍:蒲団・重右衛門の最後 (新潮文庫)

          田山花袋 作品の形成

          田山花袋 (Century Books―人と作品)