学究:高嶋米峰(52)関連史料[51]

前回同様、朝日新聞掲載分から確認していきたいと思います。

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67.1926年(大正15年) 3月 9日 「世相は動く 成年とは何歳か 娼妓取締規則の改正に就て【上】 高島米峰

全文引用↓

「變なことを尋ねるやうだが、日本では、一體、人間の成年を、何歳ときめて居るのだらう。
 冗談ぢやない。民法のまづ最初に滿廿歳の人間を以て成年としその能力を認めて居るではないか。
 イヤ、その位のことは、失禮ながら、拙者も承知して居るのだ。ところが吾々の實際生活上、果してその民法の條文が、條文通りに、活用されて居るかどうかを考へる時、そこに「日本人の成年は何歳だ」といふ愚問が起つて來るのである。マア、かうだ、聴いてくれ給へ。
 今更らしく、立憲政治の本義などと、開き直つて申上げるまでもなく、それは政治家と稱する、少數の人々だけの政治でなくて、國民の政治でなくてはならない。いはゆる國民とは、國家が、その能力を認めた人間であるとするならば、滿二十歳以上、即ち國法上成年に達した人間は、總て政治に参與し得べきものでなくてはならない。若し成年に達しながら、政治に参與し得ないものがあるならばそれは一人前の國民ではなくて、「國民見習」とか「國民心得」とか、さては、ずつと高く買つて、「國民事務取扱」とでもいふべきものであらう。
 ところで、新選擧法――人は、普通選擧法と言つて居るが、拙者は、不通選擧法と呼んで居る。と言ふのは、國民の半數である女性に不通であり、選擧権において二十五歳以下の男性に不通であり、被選挙権において三十歳以下の男性に不通であり、殊に、不合理にも、刑余者に對して、全然不通であつて、七千萬國民の、大多数に不通なる選擧法を、普通選擧法と呼ぶ程の雅量を、拙者は持合はせて居ないから、――に依ると、日本人の、しかも男性の國民としての能力を、二十五歳、若くは三十歳以上において、これを認めることにし、女性に對しては、全然、その國民としての能力を、認めないのであつて、女性は到底、政治上の成年者たるべき、可能性のないものとせられ、男性も、廿五歳若くは三十歳未滿では、政治上の未成年者として取扱はれるのである。それは恐らく、民法で認めて居る人間の能力といふものゝ中には、政治的能力といふものは、加はつては居ないといふことを主張するのであらう。
 民法で、一人前の人間だと認めて居るものも、選擧法では「人間見習」とか「人間心得」とか、としてしか認めてくれないことを不都合だと言つて、當局を責ても、手答へは無いかも知れない。それは、立法者が、男性ばかりだといふところに女性の不利があり、老人ばかりだといふところに青年の不利がある。そこに、日本人の成年に、二種類出來上らなければならない原因が、伏在して居るのではあるまいか。」

⇒高嶋米峰の「成年論」「娼妓取締規則改正論」に触れることができる記事。

 高嶋はまず、冒頭から「日本では人間の成年を、何歳ときめているのか」と問いかけ、民法で満20歳と決められてはいるものの、それが徹底されているのかに疑問を呈している(1~3段落目)。

 次に、高嶋の国民論、政治論が説かれる。立憲政治の名のもとにおいては、成年となったものは政治に関与する資格を持ち、もし政治に参加できないものがいるとすれば、それは「国民」とは言えず、「國民見習」「國民心得」「國民事務取扱」などと称すべき存在である(4段落目)。

 次段では、1925年に加藤高明内閣により制定された「普通選挙法」に対して、内容の不充分さからして「不通選挙法」と呼んでも差支えないものと主張している。その主なる理由としては、女性、(選挙権における)25歳以下の男性、(被選挙権における)30歳以下の男性、刑余者に、適切な権利が認められていないことがあげられている。民法では、成年を「満20歳」からと決めているにもかかわらず、選挙権や被選挙権においてそれが守られていないのは間違いである。これでは民法の認める人間の能力の中に、政治的能力は加味されていないことになるだろう(5段落目)。

 最後に高嶋は、上記のような「矛盾」が生じている原因として、政治の中心にいるものが、「男性+年寄り」に偏っていることをあげ、どうしてもその反対に位置する「女性」や「青年」には不利な状況が生まれやすくなっていると指摘している(6段落目)。

 

加藤高明関連書籍:加藤高明: 主義主張を枉ぐるな (ミネルヴァ日本評伝選)

          国民国家と戦争 挫折の日本近代史 (角川選書)

          滞英偶感 (中公文庫)