学究:高嶋米峰(17)関連史料[16]

前回同様、朝日新聞掲載分から確認していきたいと思います。

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26.1919年(大正8年) 6月 16日 「俗耳に入り易い浪花節で 社會改善に盡すといふ計畫 昨日赤坂の三會堂に大頭株の懇談會 ▽先づ自分の方を種々改良」

全文引用↓

浪花節通の古賀廉造氏を初め其他同好家數氏の發企にて十五日午後一時半より赤坂三會堂に全國浪花節懇談會が催された、斯道に熱心家田中薫骨氏の開會の辭あり次に古賀氏起つて○めて平易な句調で「藝術にも眼と耳を樂しませるものがあるまた耳だけのものもあつて長唄とか常盤○とかいふものもあるがこれは同じ唄ふもの語るものでも浪花節のやうに速かに俗耳に入り惡い自分は最も此の俗耳に入り易い浪花節を以て社會の改善を計りたいと思ふ」といふ

 趣意で約三十分間の演説があり續いて來賓高島米峰氏が浪花節に對する自分の意見と共に斯業者に對して反省を求むる處あり終つて懇談會に移つた、懇談の事項は「高座に於ては各自社會教育家たるの観念を持つやうにしたきを、高座に出る時は成るべく服装等に注意をしたきこと、責任を重んずること、師弟の關係を今一層親密にすること、各組合規約を重んずること」其他數項であつた、出席者は辰雄、鶴堂虎丸、愛造、八道、大教、奈良丸、勝太郎、峯吉、孤舟、清吉等七十餘名、来賓には頭山滿、本多林學博士、松浦專門學務局長、權田文學士、宮崎滔天他數氏で同五時過ぎに散會した、従來統一を缺いてゐた浪花節○以上名士の後援によつて今後定めし向上發展することであらう」

 ⇒「全國浪花節懇談會」の様子について報告している記事。「浪速節」とは、三味線を伴奏とし,歌う部分と語りの部分の二部を1人で演じる、関西地方発祥の語り物。

本会ではまず、司法界で幾つも役職に就いた古賀廉造の開会の辞によって始まる。古賀は「浪花節」の特徴として、数ある藝術の中でも「俗耳に入り易い」ことをあげている。つまり、一般の人でも聴きやすい/馴染みやすい藝術であるということである。古賀はその点を利用して、「浪花節で社会の改善を!」と主張している。

 高嶋米峰は本史料において、一来賓として名前があがっており、浪花節に対する意見を求められている。なぜ高嶋米峰が、この「全國浪花節懇談會」に招かれたのか、という点については、幾つかの理由が考えられるが、一番は廃娼運動や禁酒運動など、様々な社会改善の取り組みに参加している彼の経歴を踏まえてのことであろう。

 「浪曲師」は今後何を意識し、何を試みればいいのか。そのことについても、話し合いがなされている。

 本会の出席者・来賓の名前を確認する。「鶴堂虎丸」は、2代目・鼈甲斎虎丸(べっこうさい とらまる)のこと。浪曲名跡として知られる。「頭山滿」については、学究:徳富蘇峰(6)関連史料[5] - 学究ブログ(思想好きのぬたば)を参照。「本多林學博士」とは、日本の「公園の父」と呼ばれる本多静六のこと。宮崎滔天は、肥後国玉名郡荒尾村(現在の熊本県荒尾市)に生れた人物で、孫文らによる革命(辛亥革命)を支援するため、中国と日本、その他のアジア諸国を股にかけて活躍した革命家である。その大活劇は、彼の著作『三十三年の夢』 (岩波文庫)に克明に描かれている。ただし本書は、この史料の中心テーマ「浪花節」との関連で言えば、滔天が革命的活動から一度手を引いた後、「桃中軒 牛右衛門」という名で浪曲師として活動したことについて、その詳細を示していない。滔天は1922年に世を去るが、1919年時に一浪曲師として「浪花節で社会の改善を!」を謳う懇談会に出席していたという事実は、今後も考察するべき点であると言える。

 

浪花節関連書籍:浪花節 流動する語り芸―演者と聴衆の近代

 古賀廉造関連書籍:私の祖父 古賀廉造の生涯―葬られた大正の重鎮の素顔

 宮崎滔天関連書籍:謀叛の児: 宮崎滔天の「世界革命」

          宮崎滔天: 万国共和の極楽をこの世に (ミネルヴァ日本評伝選)

          宮崎滔天―三十三年の夢 (人間の記録 (62))