学究:高嶋米峰(10)関連史料[9]

前回同様、朝日新聞掲載分から確認していきたいと思います。

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15.1916年(大正5年) 5月 14日 「●本日の講演」

全文引用↓

 「風俗あらため會午後六時上宮敎會(婦人と職業)加藤咄堂(婦人と参政權)高島米峰(婦人と宗教)境野黄洋(婦人と教育)宮田修▲人道講話小石川東洋女學校(空也上人と近江聖人との對照)村上専精▲銀座敎會午後七時半(宗教と神)植村正久▲青年會館午後一時半横田格之助、シュローブ▲京橋敎會二宮邦次郎▲求道會館午前九時(徹底の淵源)近角常観▲淺草青年傳道館原善久、三浪徳林、窪川旭丈、來○○道▲統一敎會午前三並良夜向軍治」 (○○は馬と豚の部首が王の漢字?)

 ⇒「風俗あらため會」が上宮教会で行われ、講演内容がどんなものであるかが示されている。またその他にも、各施設での各講演が紹介(宣伝)されている。村上専精の名前は、これまで見てきた史料の中でも度々確認でき、そのほとんどが講演者として登場していたことから、大正期における宗教関連の講演会において引っ張りだこであったことが分かる。
 私の個人の関心としては、「▲求道會館午前九時(徹底の淵源)近角常観」が大変興味深い。「大正期の青年が宗教とどのように向き合っていたのか」を一つの研究題目にしていることもあり、以上のように同日に様々な宗教関連の講演会が開催されていた事実は、注目に値する。

 

[人物紹介]

二宮邦次郎・・・・・・備中高梁生まれの牧師。松山女学校( 松山東雲学園)初代校長。
         同志社の神学科に学び、受洗は新島襄から授かった。

三並良(はじめ)・・・・・・

伊予国松山の漢学者・歌原邁の子。新教神学校にを卒業後、向軍治(史料中に名前あり)らと共に普及福音教会を設立する。明治24年(1891年)に壱岐坂教会の牧師になるが、その後普及福音協会を離れて、ユニテリアンに加わる。明治33年(1900年)に日本ゆにてりあん協会機関紙「六合雑誌」の編集長を務める。後に、ユニテリアンの牧師になり、日本ゆりてりあん協会の会長を務める。

向軍治・・・・・・三並良とともに普及福音教会を設立。その後、日本ユニテリアン弘道会に入り、理事などを歴任。また、神田乃武らとともにローマ字運動を展開し、39年ローマ字ひろめ会を設立。反戦思想を主張し、しばしば筆禍・舌禍事件を起こす。

 

*近角常観関連書籍:近代仏教と青年――近角常観とその時代

 ユニテリアン関連書籍:ユニテリアンと福沢諭吉