学究:徳富蘇峰(28)関連史料[27]

前回同様、朝日新聞掲載分から確認していきたいと思います。

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53.1907年(明治40年) 4月 6日 「●全國記者大會餘録錄」

一部引用↓

「昨日の記者大會に於る演説中一番出來榮がよくて誰も感服したのは和蘭記者デネンカンブのであつた、始めから終りまで生氣、抑揚、愛嬌が充滿して崩れん許の拍手で中にも「今は日本の時勢が餘り進歩したから仕様もないが是が徳川時代であッたなら………」と述べたあたりは暗に拙者は今日なればこそ單に和蘭の一新聞記者として待遇されるに止まるけれども昔ならば諸君から定めし大持に持たであらうとほのめかしたもので一語單なりと雖も聴衆の鼓膜には異様に響て歴史の追憶がそこへ湧て來り感興無限であつた▲園遊會に移つてから左迄間のないのに新聞仲間の先輩たる箕浦勝人氏が去り大岡育造氏が去り三宅雪嶺氏が去り先刻の演説中「久しく記者として逆境の味を甞て新聞とは古い馴染の間柄、斯様に諸君と會つて見ると懐かしい戀しい」と別れるに忍びない様な意を漏らした學堂居士さへ早くも姿を隠したのに後まで殘つて一同と清興を共にしたのは島田沼南、徳富蘇峰兩君であつた、○かも蘇峰君は飲めない口でありながら大分キコシめし沼南君は木の下蔭あたりに静に身を立たせて群鷄に一鶴といふ格で知人を相手に例の快辯を揮はれた」

⇒「全國記者大會」の小エピソードを纏めた記事。一つ目のエピソードは、オランダ出身の記者デネンカンブの話し。彼が語った「今は日本の時勢が餘り進歩したから仕様もないが是が徳川時代であッたなら………」との言葉に、記事の筆者は感動を覚えている。これは、鎖国政策の中で、西欧諸国では唯一、長崎貿易を通じて外交貿易関係を維持していたオランダの歴史的背景が原因であると思われる。

 二つ目のエピソードでは、全国記者大会終了後の園遊会(戸外で催す宴会)でのもの。箕浦勝人、大岡育造、三宅雪嶺、学堂居士(尾崎行雄)が早々と会場を後にする中、最後まで園遊会に残り語り続けたのが島田沼南と徳富蘇峰であったというエピソードである。島田と蘇峰の性格が垣間見える記事。

 

*江戸期のオランダ貿易:それでも江戸は鎖国だったのか―オランダ宿 日本橋長崎屋 (歴史文化ライブラリー)

            オランダ風説書―「鎖国」日本に語られた「世界」 (中公新書)

            出島遊女と阿蘭陀通詞―日蘭交流の陰の立役者

 園遊会関連書籍:幸福/園遊会―他17篇 (岩波文庫 赤 256-1)