学究:高嶋米峰(25)関連史料[24]

前回同様、朝日新聞掲載分から確認していきたいと思います。

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36.1920年(大正9年) 10月 5日 「鉄箒 狭量と迎合」

全文引用↓

「♢佛教國たる日本に於て、基督教徒が、日曜學校大會を開催するといふのだから、そのプログラムの中には、當然、佛教徒日曜學校の代表者を、招待するといふ一日が、無くてはならない筈だ。それに對して、答體的に、佛教徒が、萬國日曜學校大會の代表者を、招待するといふ順序となつてこそ、ここに初めて、信仰を異にする世界の人々も、同一目的の上に立ちては、隔意なき交換は出來るといふものではないか。
 ♢然るに、基督教側にその用意を缺いたといふことは、國際的儀體とかいふやうな點から考へても、確に手ぬかりであつたに相違ないのみならず、佛教徒側から、歓迎會を開き、午餐會を設けて、基督教側の人々を、招待しやうといふことを交渉したのに對してさへ、快諾を與へなかつたといふのは、一體どうしたものだ。
 ♢又、佛教徒側も、まづ、基督教側から、特に招待せられるといふをさへないといふのに、多少の侮蔑を感じさうなものだのに、そこは佛陀無限の大慈悲心から却て逆に基督教側を歓迎し午餐會まで催さうといふのは、見上げた態度であると一應は讃美してもよい。しかし、さうした好意さへ、快よく受け入れないといふやうな狭量なものに對して、御機嫌を取つてまで、強ひてこちらの好意を受けて貰はうといふ迎合的態度は、恰も振られた女の尻を追ひ廻す、痴漢の醜さではないか。殊に、基督教側の日曜學校大會と、日を同じうして、少年少女大會を開催し、ヤレ祝辭を送るの、ヤレ花輪を贈るのといふのは、あまりに自ら卑しめ、自ら輕んずるものでないか。
 ♢佛教教理の大要や、佛教徒の事業などを紹介するために、歐文の印刷物を贈る位のことは、是非ともなさねばならぬ仕事であるが、それ以上の事は、さうした事情の下に、強ひてやるには及ばないことだと考へる。それよりは、寧ろ佛教各宗間の不和合とか、宗派内に於ける小紛争とか、徒らに家醜を擧げて、遠來の珍客に、内兜を見透かされるが如きことの無いやうに、相警むることが、○に必要なことではあるまいか(高島米峰寄)」

⇒この史料は、基督教徒により催された「日曜學校大會」に関するもの。

 一つ目の♢では、基督教徒が開催する日曜学校大会に、「佛教徒日曜學校の代表者」が参加することの意義が述べられている。「日曜学校」という共通項がある中でなら、異なる宗教同士であっても交流することが可能になる、と執筆者は語る。

 二つ目の♢では、上記のような意義があるにもかかわらず、日曜学校大会に佛教徒が呼ばれることはなく、また仏教徒側から基督教徒側を招く会を開くと宣言しても、芳しい返答がなかったという現状を嘆いている。

 三つ目の♢では、日曜学校大会に招かれなかったにもかかわらず、基督教徒のための会を催そうとした態度には評価できる点もあるが、一方で基督教徒側の「狭量」が明らかになった状態で、それでもご機嫌を取ろうとする態度には、「恰も振られた女の尻を追ひ廻す、痴漢の醜さ」があると批判している。また、「殊に、基督教側の日曜學校大會と、日を同じうして、少年少女大會を開催し、ヤレ祝辭を送るの、ヤレ花輪を贈るのといふのは、あまりに自ら卑しめ、自ら輕んずるものでないか。」とも述べている。

 四つ目の♢では、高嶋米峰の総括として、佛教徒側のするべきことは、日曜学校大会関係者に対しては、「佛教教理の大要や、佛教徒の事業」などについて外国語で書いた書籍を贈る程度にとどめて、それ以上のことはするべきではないと説く。本当に仏教徒側がするべきことは、佛教の各宗派の間で生じる衝突や宗派内部での闘争を少しでも解消することである、とも主張している。高嶋米峰の超宗派的性格が読み取れる史料であると言える。

 

*日曜学校関連書籍:教会教育の歩み―日曜学校から始まるキリスト教教育史

          日曜学校ハンドブック―『カテキズム教案』を用いて

          ミッション・スクールとは何か―教会と学校の間

学究:徳富蘇峰(25)関連史料[24]

前回同様、朝日新聞掲載分から確認していきたいと思います。

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48.1905年(明治38年)3月11日 「●首相邸晩餐會」

全文引用↓

「桂首相は一昨日午後七時三十分より米國公使クリスカム、同參事官シドモーア、同武官ギリス、同通譯官ヨラー、同ラフリン、同國従軍記者イーガン、同クナン諸氏を始め小村外相、清浦農相、松平正直男、都筑樞密院書記官長、陸奥廣吉、寺島誠一郎伯、佐藤辨理公使、長岡、村田兩陸軍少將、石井通商、山座政務兩局長、松方正作、吉田要作、頭本元貞、徳富猪一郎諸氏を永田町の官邸に招き晩餐會を催したり」

桂太郎主催の官邸での晩餐会の様子を伝えた史料。徳富蘇峰と政治権力との距離が垣間見える。

 史料の始めの方に並ぶ人物は、すべてが米国出身の人物。二人目の「同參事官シドモーア」は、確信をもって言えるわけではないが、地理学者で親日家として知られるエリザ・ルアマー・シドモアの兄・ジョージ・シドモーアの可能性が高い。ジョージ・シドモーアは、1884年から1922年まで日本で務めた外交官で、記事の書かれた時期と活動期間が一致する。妹のエリザについては、東洋旅行での見聞を数多くの著作に残しており、また、1896年6月15日に発生した明治三陸地震津波の被災地に入って取材し、"The Recent Earthquake Wave on the Coast of Japan"を『ナショナル・ジオグラフィック・マガジン』(1896年9月号)に寄稿している。そこで用いられた「津波Tsunamiという言葉が、英語文献で現在確認できる一番古い使用例とされる。

 寺島誠一郎は鹿児島の生まれで、ペンシルバニア大学やパリ法科大学で学んだ貴族院伯爵議員。大日本帝国憲法下の貴族院における政党・院内会派の一つである研究会(貴族院最大会派)に所属した。

 松方正作は、松方正義の次男。外務書記官や特命全権公使、猪苗代水力電気取締役などを務めた。

 吉田要作は明治~昭和期に活躍した外交官。オランダのハーグ公使館やソウル公使館での赴任を経て、明治23~25年に鹿鳴館館長を務めた。外交官としての優れた活躍から、イタリア王冠勲章や赤鷲第四等勲章、レジオン・ド・ヌール勲章オフィシエ章が授与されている。

 頭本元貞は、東京大学予備門、札幌農学校出身のジャーナリスト。『ジャパンタイムズ』や『ヘラルド・オブ・エイジア』などの情報媒体で文筆を揮い、また伊藤博文渋沢栄一から重宝された。

 

桂太郎関連書籍:桂太郎―予が生命は政治である (ミネルヴァ日本評伝選)

         桂太郎 (人物叢書)

 エリザ・ルアマ―・シドモア関連書籍:シドモア日本紀行: 明治の人力車ツアー (講談社学術文庫)

                   日露戦争下の日本―ハーグ条約の命ずるままに ロシア軍人捕虜の妻の日記

学究:高嶋米峰(24)関連史料[23]

前回同様、朝日新聞掲載分から確認していきたいと思います。

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35.1920年(大正9年) 8月 16日 「鉄箒 調査事項に就いて 高島米峰氏の「去勢調査」に對する國勢調査局の辯明」

全文引用↓

「♢國勢調査事項中に、國民の宗教、教育の程度を示すべき項目を新に追加して貰ひたい、といふことでありますが、若し國民生活の各方面の現状が、その儘些の錯誤なしに直寫し得る方法があつたら、最も理想的な國勢調査がなし遂げらるゝ譯でありますけれども、却々さう都合好くは行きかねるのです、國民文化の程度を成るべく手軽な方法に依りて知ることが出來たならば勿論結構なことに違ひありません。
 ♢併しながら、種々研究を經たる結果、調査事項は、氏名、男女別、生年月日、職業、職業上の地位、民籍別………等の八項目に決められたのは、元來調査事項は、國民生活の現状を測知すべき骨子たるべきものであつて、成るたけ簡單明瞭で、何人にも容易に――比較的――そして適確に答へ得るもので無ければならぬ」といふ趣旨に基いたものです。
 ♢假りに宗教教育等に就て、附帯調査を實施するとしても、申告用紙だけでも千二百萬枚から印刷しなければならぬのですから、現在の印刷局の能力から云つても、今から準備をすることは一寸困難な仕事にもなります、併しながら近來各方面から、國勢調査に就て熱心な意見を申出でられる向に對しては當局者として相當考慮を拂ふことを惜しむものではありません。」(一記者)」

⇒この史料は、高嶋米峰の国勢調査局に対する要求「國勢調査事項中に、國民の宗教、教育の程度を示すべき項目を新に追加して貰ひたい」について、国勢調査局が返答したという中身になっている。

 国勢調査局は、高嶋米峰案を仮に国勢調査項目に加えたとしても、国民文化の全体像を把握することには繫がらないと述べる。また、質問内容を「氏名、男女別、生年月日、職業、職業上の地位、民籍別」など簡単に答えられるものにすることも重要であるとし、あとは附帯調査の實施において発生する費用についても、経済的な問題で高嶋米峰案の困難が主張されている。

 

国勢調査局関連書籍:国勢調査 日本社会の百年 (岩波現代全書)

           国勢調査と日本近代 (一橋大学経済研究叢書 (51))

           東アジアの社会大変動―人口センサスが語る世界―

学究:徳富蘇峰(24)関連史料[23]

前回同様、朝日新聞掲載分から確認していきたいと思います。

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47.1905年(明治38年) 1月 16日 「●ハリス博士歓迎會」

全文引用↓

「日韓兩國の基督教傳道監督として北米合衆國より渡來せるハリス博士の歓迎會は一昨日午後二時より神田青年會館に於て開かれたり參會者千餘名にて最初に祈祷及び音樂の合唱あり次に平岩恒保、徳富猪一郎、島田三郎、尾崎行雄四氏順次登壇何れも博士が三十餘年前より日本人を敬愛し日本人の爲め盡したる同情は感謝する所にして博士は貌こそ米國人なれ心は日本人なり否日本人よりも日本人なりと博士の同情を讃美し最終に博士は拍手聲理に登壇し日本語を以て一時間餘に渉る壯快なる演説を爲し五時半散會したり米國公使は伏見宮殿下奉迎の爲め横濱に行きしにより出席せずとの挨拶ありき博士の演説の大要に曰く
 諸君、私は今日此盛なる歓迎を受けまして感謝に堪へませぬ私は感謝の意を表する爲に不完全ながら日本語を以て一場の演説を致しますドウか其の意のある所を御聞取り下さい
 私は今を距る三十二年前に日本國の風光及び人情歴史を慕ふて此大和の國に參りました其頃は日本に於て英米の書物を見たいと思ふて捜索したが僅に英人の著はした書物が一冊ありしのみでありました元來私が最初より日本で生涯を送る積で參りましたが故あつて歸國することとなりましたが其後紐育へ行きますると日本人の著はした書物も澤山にある又西洋人の著はした書物も今日では日本の圖書館などでも殆ど其多數を占て居ります三十二年前の日本を回顧致しまするとマルで別世界の様な感じが起ります日本の文明、日本の進歩と云ふものは實に非常なもので斯る進歩發達は世界無比であります
 昨年十一月私が日本に參ります時に或友人が云ふにはお前は米國と云ふ故郷があるのにワザワザ日本の墓場に死に行くのかと、私は之に答へてイヤイヤ日本は我の墓場ではない我は三十二年前に日本に行き日本で生涯を送らうと決心したのであるからまた日本に歸るのだと申しました私は幼少の時より歴史を讀み東西古今の英雄豪傑などは皆私の胸中に呑んで仕舞つた、日本に參りました時も日本の大和魂を持てる人々を呑む積りでありましたが到頭大和魂に呑まれて仕舞ました(大拍手)
 私が今回の日露戰争にも日本に同情を寄せまするのは日本が露國を征するのは正義であるからである、元來露國は我米國とは人種及び宗教も一つであれば日本に同情を寄せるは人情の自然であるが露國は人道に背きて戰争を起したれば基督教の本義に背いて居るから我々人類の敵として同情を寄せることは出來ませぬ併し戰争は悲しむべきもので彼の南北戰争の時には四年の間に我が米國の同胞は五十萬も死ました私は日露の戰争に際し其多くの軍人が戰死しまするのを聞く毎に悲慘の感に堪へませぬのであります日露の戰争も日本は正義を以て闘ふのでありますから其終局の勝利を得ることは明白であつて西洋人特に我米國人は日本の文明的戰争を稱讃して居ります
 終りに臨んで一言致したきは日本は既に世界の強國たる英國と同盟の條約を締結して居るが我米國とは未だ表面上同盟の條約を結ばざれども其厚き交際は既に離るべからざるものと成つて居る故に私は將來我米國は日本と益々親密なる交際を結び他日表面上の同盟を爲し日米英三強國が鼎足の形を以て世界に立たば如何なる強敵と雖も恐るヽに足らず世界の平和を保つことが出來得ると信じて疑ひませぬ、私は老年にして頭髪已に雪の如くなれど滿場の青年諸君の力を借り益兩國の爲め盡したいと思ひます
猶私は日本及び朝鮮に於ける基督教傳道を監督たる責任を全うする爲に日本人も朝鮮人も一つの人種なれば人道の爲め滿腔の赤誠を以て働かうと思ふのである云々」

⇒まず題にある「ハリス博士」とは誰なのかについて考える。「日韓兩國の基督教傳道監督」「北米合衆國より渡來せる」という紹介から、キリスト教関係の人物でアメリカ出身の人物であることが分かる。また、日本人キリスト教者によって「歓迎会」が催されるほど尊敬される人物でもある。そこから推察して、この「ハリス博士」とは「メリマン・ハリス」(1846年7月9日 -1921年5月8日)である可能性が高い。

 メリマン・ハリスは、メソジスト監督教会の宣教師として明治6年から日本でキリスト教伝道を開始した人物で、親日家として名高い。日本での主な活動としては、ウィリアム・スミス・クラークの依頼により、札幌農学校卒業生のキリスト教指導を行なったことがあげられる。ハリスに洗礼を授けられた人物としては、佐藤昌介、大島正健(以上、第1期生)、内村鑑三新渡戸稲造(以上、第2期生)らが知られる。また、アメリカ・サンフランシスコのリバイバルで救われた日本人による伝道団体「ちいさき群」のメンバーである笹尾鐵三郎や河辺貞吉を信仰の道に導いたことでも知られている。

 今回の史料で徳富猪一郎らは、ハリスを「貌こそ米國人なれ心は日本人なり否日本人よりも日本人なり」と評して讃美し、それに対してハリスは日本語で応答している。その応答(演説)内容を以下に纏めてみる。

○今(註:1905年)から32年前に、日本国の風光・歴史に憧れて日本にやってきた。来た当時は、日本にはほとんど西洋の書物は存在しなかったが、今では図書館などで多くの本に触れることができる。日本の進歩には脱帽する。

○日本で生涯を送ることを決意したのは、自分が大和魂にすっかり呑まれたという経験をしたから。

○「私が今回の日露戰争にも日本に同情を寄せまするのは日本が露國を征するのは正義であるからである」「彼の南北戰争の時には四年の間に我が米國の同胞は五十萬も死ました」。本来戦争は悲しむべきものだが、正義をもって戦う日本のことは応援する。「西洋人特に我米國人は日本の文明的戰争を稱讃して居ります」。

○日本が英国とだけ同盟を結んでいるのは悲しい。「將來我米國は日本と益々親密なる交際を結び他日表面上の同盟を爲し日米英三強國が鼎足の形を以て世界に立たば如何なる強敵と雖も恐るヽに足らず世界の平和を保つことが出來得ると信じて疑ひませぬ」。

○「日本及び朝鮮に於ける基督教傳道を監督」する立場として、人道のために全力を尽くすことを誓う。

 

*日韓キリスト関連書籍:日韓キリスト教関係史論選

            東アジアの平和とキリスト教―日韓教会連帯の20年

            越境する日韓宗教文化―韓国の日系新宗教 日本の韓流キリスト教

 札幌農学校関連書籍:覆刻札幌農学校

           札幌農学校とキリスト教

 佐藤昌介関連書籍:佐藤昌介とその時代 [増補・復刻]

『現代思想 総特集 仏教を考える』を読む(1)「序:個人的な体験」

みなさん、こんにちは、本ノ猪です。

 いつもは、徳富蘇峰や高嶋米峰の史料を紹介している「学究ブログ(思想好きのぬたば)」ですが、今回は少し趣向を変えて、

 最近刊行されたばかり(2018/09/28)の『現代思想 総特集 仏教を考える』に掲載された幾つかの論稿を読んで、考えたことや疑問に思ったことを、個人的な体験も踏まえて纏めていければと考えています。

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 今回は記念すべき(苦笑)第一回目ということで、「『現代思想 総特集 仏教を考える』を読む(1)「序:個人的な体験」」という題で、駄文を披露できればと思います。

「どんな人がこんな文章を好き好んで読むんだろう?」と思いますが、もし響いて欲しい対象がいるとすれば、「学問に真剣に取り組みたいと思っているが、なかなかモチベーションがあがらない大学生」や「労働と学問を両立させたいが、なかなか心身が安定せず難しい会社員」などに読んで頂きたいと思います。(もちろん、他の方にも読んでいただければと思います。)

 それではよろしくお願いします。

(実際に『現代思想 総特集 仏教を考える』をお読み頂き、徹底批判を加えて頂けると更に有難いです。こちらでチェックできます⇒https://amzn.to/2Qiwbt3

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「序:個人的な体験」

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「先生はどういう目標があって研究の道に進まれたんですか?」

 大学の三回生に進級したばかりの頃、少しずつ「研究者」という職に憧れを抱きはじめた私は、先生方に会う度に上記のような質問をぶつけていた。

 あの頃の私にとって、歴史学や哲学など、一般的に「実用性をもたない」「就職に役立たない」と切って捨てられがちな学問を、とても楽しそうに語る大学の教員や研究員の姿は、憧れの対象であった。(今でもそれは変わらない。研究者の「辛い環境」という現実が身に染みて分かってきても。)

「大学に入学したら、とにかく色々な専門の先生に会いに行こう!」

という方針のもと、大学一回生の頃から、様々な大学や研究機関に所属する先生にアポイントをとっては、お話しを伺いにいった私にとって、「研究者」への憧れが募っていくのは当然だったのかもしれない。

 そんな私にとっては、「先生はどういう目標があって研究の道に進まれたんですか?」という質問は、大変重要な意味を持っていた。

 「大変重要な意味」とは大袈裟な表現である、と私も思う。その意味を端的に言えば、「背中を押して欲しい」という言葉に集約できる。(または乏しいボキャブラリーで言い換えれば、「研究者」の道を迷うことなくすすむことができる「地図」が欲しかった。)

 私の家は、あまり経済的に裕福ではあるとは言えず、大学に進学する際も、生活費と学費は自分でまかなう(正直に言えば、入学金などは両親に支払ってもらったし、お米を二カ月に一回ほど送ってもらっていた)というのが条件であった。その条件を果たすため、日々幾つかのバイトを回しながら、必要費用を稼いでいた私には、当然研究者の道に進むための第一条件(だとなぜだかされている)「大学院への進学」が、茨の道として前方に広がっていた。

「これまで以上に働けば何とかなる」と思っている自分

「バイト生活なんかやめて定職につけよ」と忠告してくる自分

とに板挟みになっていた私には、「先生はどういう目標があって研究の道に進まれたんですか?」の先にあるアンサーが、きっと自分の背中を押してくれると信じてやまなかったのである。(または、素敵な「地図」が手に入ると信じてやまなかった。)

 しかし、その質問の先に待っていたアンサーは、決して自分にとって腑に落ちるものではなかった。

「そんな恰好いい目標なんてない」

「とにかく就職したくなかった」など

むしろ落胆してしまうアンサーにも遭遇することがあった。

 そんな落ち着かない日々を送っていた私に、研究者への道に進む勇気(と「地図」)を与えてくださった方々がいた。

 それが今回『現代思想 総特集 仏教を考える』に名前のあがっている研究者の幾人かである。

 研究室で四時間ほど雑談に付き合って頂いたり、酒場で「院生になる前にしておくべきこと」をレクチャーして頂いたり、毎週(いや、二日に一度)ご飯に連れていってもらったり、小さなお手伝いで結構なお手当をくださったり、書籍を頂いたりと、自分の裡から沸々と生じてくる「将来への悩み」を、適度に発散することのできる機会を作ることができたのは、本当に幸福なことであった。

 勿論、今回の『現代思想』の執筆者ではない先生方にも(むしろこちらの方が人数は多い)感謝の気持ちは強く持っている。

 そのことを大前提にして、「『現代思想 総特集 仏教を考える』を読む」では、『現代思想 総特集 仏教を考える』に掲載されている論稿の幾つかを読んで、雑感を述べていきたいと思う。

 

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「お前、今回は何の論文の感想も書かんのかい!」と思われた方、すみません。

 きちんと次回からは書きます。

 ご拝読ありがとうございました。

 

 

 

学究:高嶋米峰(23)関連史料[22]

前回同様、朝日新聞掲載分から確認していきたいと思います。

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34.1920年(大正9年) 2月 13日 「職業制限撤廢を叫ぶ 僧徒の參政要求 普選は大勢なり被選の權利に差別あらんや 気勢揚る明治會館の大會」

全文引用↓

 「普選の提唱と共に不當不合理な被選擧權の職業制限撤廢を期する佛敎各宗有志並に有力佛敎徒等の參政權差別撤廢期成同盟會は十二日夜六時神田明治會館に大會を催した、參會約八百名、楠原龍誓氏開會の辭を述べ座長に岡本貫玉氏を推し直に宣言
 決議の朗讀あり、富山縣代表河合大爾外數氏の祝辭朗讀後實行委員に
 岡本貫玉、中西雄洞、木山十彰、田崎達雄、岩野眞雄
 諸氏を擧げ座長の發聲で萬歳を三唱し續いて演説會に入つた、高島米峰(徹底的普選)中野實○(普選の眞義)渡邊海旭(文化思想の根柢)安藤正純(特權階級と特殊階級)田中舎身(普選案の歴史と現状)諸氏各熱辯を揮つて被選擧權職業制限の不合理を叫び滿場割れんばかりの
 喝采裡に 十時半閉會した、尚實行委員諸氏は本日部署を定めて各政黨首領を訪問して主旨の貫徹に盡すといふ
 △決議 
一、吾曹は佛教の本旨に基き國運の隆盛に資し社會の慶福を増益せんが爲に此處に普選の實現を期す 
一、吾曹は立憲の本義及び普選の公理に依り選擧法第十三條の撤廢を期す」

 ⇒34の史料は、先程の33の後半部分にある「十二日午後六時より神田の明治會館」で開かれた会合に関して述べたもの。この大会は、梅原龍誓の開会の辞により始まり、岡本貫玉を座長として、宣言・決議・演説が進められた。(岡本貫玉については、岡本貫玉 - 新纂浄土宗大辞典を参照。)

 実行委員のメンバーには、社会福祉施設の設立や雑誌『労働共済』の運営に携わった中西雄洞や寄宿舎「至心学寮」設立で知られる木山十彰、大東出版社を立ち上げた岩野眞雄らの名が並ぶ。

 演説内容を見ると、「高島米峰(徹底的普選)」「田中舎身(普選案の歴史と現状)」と、「普選」が強く意識されていることが分かる。仏教界が「普選」に強い関心を持っているのは、僧侶に対する「職業的差別」「参政権差別」の撤廃に繫がるためである。つまり仏教界は、僧侶に被選挙権が認められていないという状況をきっかけとして、「普選運動」という一種の社会運動にコミットしていくことになる。(僧侶に初めから被選挙権が認められていれば、仏教界の普選運動(社会運動)に対する関わり方は違った者になっていたかもしれない。

 決議された内容を纏めると、次のようになる。

「一、仏教界が国家と社会の幸福のために尽くす上で、普通選挙を要求する。」

「一、「立憲の本義及び普選の公理」を前提に、選挙法第13条の撤廃を要求する。」

 

普通選挙関連書籍:普通選挙制度成立史の研究 (岩波オンデマンドブックス)

学究:徳富蘇峰(23)関連史料[22]

前回同様、朝日新聞掲載分から確認していきたいと思います。

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45.1904年(明治37年) 4月 11日 「●随感随筆 彌生山人」

一部引用↓

「○廣く用ひられる語の利益 然るに又今度になつて山人は英語の利益を感じたのである未だ獨逸語流行の初期頃であつた徳富蘇峰君は山人に向つて御互ひに英語を學んだ人は損ですなア英語は有觸れて居て有難味が少いマコーレーが何と書いて居たとかカーライルが何と云つたとか説いても人が知つて居るから人の感服し方が少いがシルレルが何とかスピノザが何だか云ふと有觸れて居ないから何だかエラ想に見えると話し合つた事があつた然るに今度日本が義戰を起したに就て露國は我が國を○○(「ぺてん」と読む)だとか何とか捏造説を流布しやうと掛つたけれども露國の新聞は讀む人が少いから之に欺される人が少い之に反して英語は世界何處にも讀まれるから英語の新聞が一たび露國の負惜み説を反駁すれば世界の人民は乍ちにして露の非道を知り日本の正當を悟るのである」

⇒この史料は、執筆者が「英語を学んでいてよかった」と思った出来事について述べているものである。執筆者は、自身と同じく英語を学んでいた徳富蘇峰との遣り取りをとりあげている。すなわち、英語で読むことができるマコーレーやカーライルの論を幾ら知っていても、それは珍しいことではなく、一般的に知られている情報でしかない。それに比べて、ドイツ語の本を読める場合は、シルレルやスピノザなど、多くの人がまだ把握・認識していない情報について知ることができる。そう考えて見ると、能力の希少価値から言うと、英語よりドイツ語を学んでいた方がよかった、というのである。

 ただ、その認識は、1904年(明治37年)2月8日より勃発した日露戦争を契機に変化する(史料中の「義戦」という言葉にも注目して欲しい)。露国語で書かれた新聞による日本批判については、そもそも露国語を扱う人口が少ないことから、その普及度は低い。それに比べて、英語で書かれた新聞は、言語的な障壁も少ないために、多くの人に読まれることが想定される。その新聞で、いかに露国の日本批判が誤りであるのかが示されれば、その影響力は絶大であると説いている。

 最初は、あまり使用されていない言語を扱えた方が、能力として希少価値があると考えていたのが、日露戦争をきっかけとして、多くの人が扱う言語を身に付けた方が優位であると考えるようになった。これは大変面白い変化であると言える。

 

*カーライル関連書籍:カーライル選集 1 衣服の哲学

           カーライル選集 2 英雄と英雄崇拝

           カーライル選集 3 過去と現在

 

46.1904年(明治37年) 5月 5日 「●ストルジ博士歓迎會」

全文引用↓

「今回來遊のストルジ博士の爲め珍田捨巳、島田三郎、江原素六、本多庸一、徳富猪一郎、安藤太郎の諸氏發起となり來七日午後二時より青年會館に於て歓迎會を催す博士は多年日本人に對し大なる同情と尊敬とを表し渡米本邦青年の爲に拮据盡力する處少からざる人なり」

⇒「ストルジ博士」の歓迎會が催される予定であることが伝えられている記事。「ストルジ博士」が何者であるのかは不明(このブログを見ている方でお分かりの方がいれば教えて頂けるとありがたいです)。推測だが、本多庸一と珍田捨巳はメソジスト派キリスト教者、島田三郎、江原素六キリスト教への篤い信仰心をもつ人物であるため、「ストルジ博士」はキリスト教と何らかの関係がある人物かもしれない。

 珍田捨巳は、明治から昭和初期に活躍した外交官。東奥義塾で本多庸一から学び、キリスト教の信仰心に目覚めた。在サンフランシスコ日本領事などを務めた後、昭和天皇の皇太子時代(裕仁親王)の教育係(東宮大夫)として宮中で活躍した(裕仁親王は珍田の他に足立タカ、山本信次郎からも教育を受けているが、彼等もクリスチャンである)。

 

*珍田捨巳関連書籍:ポトマックの桜物語:桜と平和外交

 「天皇キリスト教」関連書籍:天皇とキリスト: 近現代天皇制とキリスト教の教会史的考察

                十五年戦争期の天皇制とキリスト教 (シリーズ近現代天皇制を考える 3)