学究:高嶋米峰(22)関連史料[21]

前回同様、朝日新聞掲載分から確認していきたいと思います。

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33.1920年(大正9年) 2月 11日 「佛敎徒参政運動 被選擧權の請願」

全文引用↓

 「現今普選運動は重大なる國民の聲となりつゝあるが之に關し僧侶は従來被選擧權を有せず職業的差別制に拘束され居るは不合理の甚だしきものなりとて田中弘之、安藤正純、渡邊海旭、窪川旭丈の諸氏發起となり參政權差別撤廢期成同志會を組織し選擧法第十三○(參政權制限)の撤廢を期すべく政府議會を初め一般に運動するが十二日午後六時より神田の明治會館に大會を開き宣言決議を○○都下二千の寺院檀信徒連署の請願書を作成し引續き全國に聯絡を取り目的貫徹に努力する由因に十二日の演説者左の如し 
 田中弘之、安藤正純、渡邊海旭、高島米峰

 ⇒普選運動が盛り上がる中で、そもそも被選挙権が認められていなかった僧侶が「職業的差別はよくない!」と訴えて起した「佛敎徒参政運動」について示されている。ここでは当時(大正9年時)の選挙法第13条(参政権制限)が問題とされ、それを撤廃するために有識者・関係者による「參政權差別撤廢期成同志會」が結成されたことが伝えられている。発起人は、「田中弘之、安藤正純、渡邊海旭、窪川旭丈」の諸氏であるが、その中の「安藤正純」について少し掘り下げる。

 安藤正純は東京にある真宗大谷派・真龍寺の住職の子として生まれ、哲学館や東京専門学校で学んだ後、雑誌『日本』、『東京朝日新聞』での記者活動を経て(安藤鉄腸という名で幾つかの著作を残している)、1920年衆議院議員選挙で立候補し当選を果たした人物である。ここで注目したいのが、「1920年衆議院議員選挙」。この選挙は原敬内閣時に行われた第14回目の選挙で、実施日は5月10日であった。今回扱っている記事が新聞に掲載されたのは「2月11日」であるため、この時まだ安藤正純は政治家ではない立場で、「佛敎徒参政運動」に取り組んでいたことが分かる。もちろん安藤は住職の子として「僧籍」を有していたため、当時は僧侶としての生活はしていなかったとしても、少しでも僧侶への「政治的差別」を解消したいという思いがあったのだろう。彼が第14回の選挙で当選したことは、仏教界にとって強い支えとなった。

 史料には「二千の寺院檀信徒連署の請願書を作成し」とあるように、一部の知識層の僧侶だけではなく、多くの寺院・僧侶が「僧侶への職業的差別を撤廃したい」と望んでいたことが垣間見える。

 次回のブログでは、上記史料中の「十二日午後六時より神田の明治會館」での大会の詳細を示した史料について見ていきます。

 

*渡邊海旭関連書籍:紫雲の人、渡辺海旭―壼中に月を求めて

          荻原雲来と渡辺海旭―ドイツ・インド学と近代日本

          

学究:徳富蘇峰(22)関連史料[21]

前回同様、朝日新聞掲載分から確認していきたいと思います。

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44.1904年(明治37年) 2月 15日 「●帝國ホテル大集會」

一部引用↓

「府下重なる實業家及び新聞雜誌記者諸氏の發企に成れる帝國ホテルの會合は昨十四日午後二時より開催せられ出席者は貴族院議員、各政黨有力者、京濱の重なる實業家及新聞記者等無慮二百五十餘名にて最初に發企者の一人大岡育造氏登壇し日露の交渉遂に破裂に至りしは甚だ悲しむべしと雖も開戦の第一着に於て我が海軍の勝利を得たるは我々の愉快とする所なり夫れに就き種々御相談致し度き事もありて諸君の御會合を煩らはしたるに御繁忙中にも拘はらず多數御來會ありしは滿足の次第なりと挨拶し同氏の指名にて田口卯吉氏を座長に押し島田三郎氏登壇して開會の辭を述べたり其要(以下、省略)」「實行委員 渡邊吉太郎 徳富猪一郎 大岡育造 田口卯吉 黑岩周六 陸實 朝比奈知泉 箕浦勝人 島田三郎 加藤正義 高橋是清 園田孝吉 朝吹英二 三崎○之助」

⇒帝国ホテルで行なわれた、実業家&新聞記者の手による集会(パーティ)の様子が描かれた記事。出席者には、政府関係者も確認できる。

 集会の発起人の一人である大岡育造の演説に注目する。大岡育造は、明治から大正期にかけて活躍した弁護士・政治家で、弁護士時代に「秩父事件」や「ノルマントン号事件」などを担当した。大岡は「日露の交渉遂に破裂に至り」や「開戦の第一着に於て我が海軍の勝利を得たるは我々の愉快とする所なり」など、1904年2月8日から始まった日露戦争について言及している。「愉快」という言葉から読み取れることは、この帝国ホテルでの集会が全体として「好戦ムード」であるということ。微塵も厭戦」や「非戦」の要素は掴めない。また大岡は、日露戦争に関連したことで出席者に相談事があるとも述べている。

 「渡邊吉太郎」は、坂本龍馬中岡慎太郎を殺害(近江屋事件)したことで知られる「渡邊吉太郎」とは別人。詳細は不明。

 「朝比奈知泉」は、『郵便報知新聞』『国民之友』『東京新報』『東京日日新聞』『万朝報』などの新聞・雑誌で活躍した記者。『東京日日新聞主筆時代に、明治27年(1894年)の条約改正問題、翌年の遼東還付問題(遼東還付条約)をめぐり、『日本』の陸羯南と論争したことは有名である。

 「箕浦勝人」(みのうらかつんど)は、郵便報知新聞社社長や逓信大臣(第2次大隈内閣時代)を務めた人物。

 「園田孝吉」は、大隅国太良村(現・鹿児島県伊佐市)の生まれ。ロンドン総領事や横浜正金銀行頭取などを務めた人物で、1923年9月の関東大震災で被害にあい、亡くなった。

 「朝吹英二」は、豊前国(現・大分県)生まれの実業家。三井合同会社理事長を務める。若き日は、広瀬淡窓により開かれた咸宜園(かんぎえん)などで学び(淡窓は1856年に没しているため、朝吹との直接的な接触は無い)、尊攘思想の影響から福沢諭吉暗殺計画を企てるが、のちに福沢から庇護を受ける関係になる。「学究ブログ」との関連でいえば、福沢諭吉の甥である「中上川彦次郎」とは、彼の妹・澄と結婚するため縁戚関係となる(詳しくは学究:徳富蘇峰(12)関連史料[11] - 学究ブログ(思想好きのぬたば)をチェック)。

 ちなみに「朝吹」という珍しい苗字で思い浮かべると、『きことわ』で芥川賞を受賞した「朝吹真理子」さんの名前が頭を過るが、「朝吹英二」からみて「朝吹真理子」さんは玄孫にあたる(その他にも、「朝吹」姓には、フランス文学者として知られる朝吹三吉朝吹登水子兄妹などがいる)。

 

*大岡育造関連書籍:日本人と英語 ――もうひとつの英語百年史

 秩父事件関連書籍:秩父事件―自由民権期の農民蜂起 (中公新書 (161))

 広瀬淡窓関連書籍:広瀬淡窓と咸宜園―ことごとく皆宜し

 朝吹真理子関連書籍:きことわ (新潮文庫)

           TIMELESS

 

 

 

 

学究:高嶋米峰(21)関連史料[20]

前回同様、朝日新聞掲載分から確認していきたいと思います。

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32.1920年(大正9年) 2月 8日 「鉄箒 馬子の弑逆と太子」

全文引用↓

 「♦崇峻天皇が弑逆に遭ひたまへる時聖徳太子がただ過去の報なりと歎息せられただけで 馬子の無道を誅伐せられなかつたといふことが各種の歴史に明記してあるといふ人があるが、その謂はゆる各種の歴史といふのは、何々なりや承はりたい。淺學な僕の讀んだ各種の歴史、即ち、最古の官選國史たる日本書紀にも、太子の薨去を去ること遠からざる時代に成つた法王帝説にも、また、塙保己一群書類従を○した時集めた太子傳補闕記にも、さういふ記事が載つて居ない。ただ一つ、藤原時代頃に、不確實な修飾を多くして、面白く書きこなされた太子傳暦といふのに、出て居るだけである。しかし、傳暦の歴史的價値は、專門史家の間に定評のあるもので、これは、史論の證権を値しないものである。

 ♦イヤ、水戸の大日本史でも讀んだし、山陽の日本政記でも讀んだし、さては、林道春の蘇我馬子辯、荻生徂徠の擬家大連檄、などでも讀んだが、皆さう言つて居るではないかと言ふかも知れぬ。しかし、歴史でないものまで數へ擧げても、それ位しかないといふのは、頗るお氣の毒である。まづ、大日本史が、なぜ、こんな根據のない記事を書いたのかといふに、それは、全く排佛黨の史家連中が傳暦の記事を観て、鬼の首でも取つたやうなつもりになつて、何等の批判と考察とを加ふることなく、ただもう有頂天になつて援引したものであることは言ふまでもない。又、山陽の日本外史や日本政記が、歴史として何等根本研究を加へたものでなく、従つて、史書として 権威を有しないことは、これ亦、今更言ふにも及ばない。林道春や荻生徂徠が、故意に太子を傷つけんとしたるは、彼等の論錄を借りて言へば、儒に泥するところより、傳説を基礎として、強ひて排佛の具に供したに過ぎないのであつて、その情や、寧ろ憐れむべきである。

 ♦然るに、大正の今日、またその糟粕を甞めて、太子を非議せんとするが如き、時代後れの人があるといふだけでも、いよいよますます太子の鴻業偉徳を嘆美し、太子の根本精神を讃仰し、依つて以て確實に、太子をして、國民崇敬の的たらしむることに努力しなければならないといふことを、痛感するのである(高島米峰寄)

♢本稿の外松原至文氏、廣瀨了○(義?)氏寄より太子を頌讃せる寄稿あれど紙面の都合上割愛したり(係)」

 ⇒この史料の中心テーマになっているのは「崇峻天皇が592年に臣下によって暗殺された事件」。その首謀者は、蘇我馬子である。

 聖徳太子敏達天皇3年1月1日(574年2月7日)の生まれで、推古天皇30年2月22日(622年4月8日)に没したとされる。蘇我馬子崇峻天皇を暗殺した時点では、未だ皇太子の立場にはない(崇峻天皇暗殺後、推古天皇の時代に補佐役となる)。ここで、記事の執筆者・高嶋米峰が問題にしているのは、この崇峻天皇暗殺時に、厩戸皇子聖徳太子)が馬子の蛮行に対して「ただ溜息をして、とくに責めることはしなかった」という言説が巷に流布していることへの問題提起である。「どんな歴史書にそんなことが書かれているのか?言ってみろ!」というのが高嶋の主張であり、記事中でその論証がなされていく。

 高嶋米峰は述べる。聖徳太子を知る上での基礎文献(日本書紀、上宮聖徳法王帝説、群書類従中の「太子傳補闕記」)を見ても、聖徳太子蘇我馬子の蛮行を見て見ぬふりをしたとはどこにも書かれていない。平安時代にわずかに「太子傳暦」という書籍はあるものの、ここでの内容は歴史学的に見て否定されている。

 そんな中、ならばなぜ上記の如き言説が幅を利かせているのか? その原因には、徳川光圀が編纂を命じた『大日本史』や頼山陽の『日本政記』、林道春『蘇我馬子辯』、荻生徂徠の『擬家大連檄』などの書物での記述がある。高嶋は上記の四冊を、「排仏の思想・思惑が根底にある」「歴史書としての価値を有さない」と批判する。ここで「排仏」が意識されているのは、聖徳太子が仏教の篤信者であったことから、彼の評価を下げることで、仏教そのものの価値も下げる、という流れが想定できるということであろう。

 高嶋は結論として、「大正の時代になって、今なお聖徳太子非難を行う者がいるのは、時代遅れの感がして相手するだけ馬鹿馬鹿しい。一方、そんな状況だからこそ、聖徳太子の偉業を讃える試みが求められる」と述べている。

 大変興味深い論稿であった。

 

蘇我馬子関連書籍:蘇我氏と馬飼集団の謎(祥伝社新書)

          飛鳥京物語―蘇我稲目と馬子の時代

          蘇我氏-古代豪族の興亡 (中公新書)

 塙保己一関連書籍:塙保己一とともに―ヘレン・ケラーと塙保己一

          塙保己一 (人物叢書)

 荻生徂徠関連書籍:荻生徂徠 (叢書・日本の思想家)

 頼山陽関連書籍:頼山陽とその時代(上) (ちくま学芸文庫)

         頼山陽とその時代(下) (ちくま学芸文庫)

 

学究:徳富蘇峰(21)関連史料[20]

前回同様、朝日新聞掲載分から確認していきたいと思います。

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42.1903年(明治36年) 8月 24日 「●文壇週報 文壇子」

一部引用↓

「◉此ごろ新聞紙に見にたる出版書廣告に萬朝報世界萬國欄記者斯波貞吉著と云ふがあるが萬朝報世界萬國欄記者とは何のコツタ、何のコツタ、時候のせいか、弓町邊から此ごろなんだか眞面目にお交際の出來にくい様な人間を續々出すが、近所迷惑だ◉二號字は仰山を意味す。仰山論を書いて有ゆる天下の新聞雜誌を罵れるは徳富蘇峯なり、而して徳富蘇峯の國民新聞ほど二號字多き新聞紙は日本になし、西洋は知らず」

⇒一つ目の◉では、出版書広告欄に見られた「萬朝報世界萬國欄記者」という言葉の意味不明さが指摘される。また「弓町邊」というのは、 東京都文京区本郷の地名であり、そこには「東京帝国大学」が位置しているため、史料中の「斯波貞吉」(東京帝国大学選科卒業、「萬朝報」ジャーナリスト、仏教大学(現・龍谷大学)教授)も含めて、「東京帝国大学卒業生に交際しにくい者が増えた」と記事執筆者は述べていることが分かる。

 二つ目の◉では、前回分のブログ(学究:徳富蘇峰(20)関連史料[19] - 学究ブログ(思想好きのぬたば))で紹介した徳富蘇峰の「仰山」論が取り上げられている(「二號字」とは何か、ということについても上記の前回分ブログをチェック)。ここでは、「一番大袈裟な記事を掲載し続けているのは、「仰山」論を唱える蘇峰本人が出版する「国民新聞」ではないのか」と批判がなされ、しかもその大袈裟ぶりは「西洋にも存在しない」とされている。鮮やかな批判である。

 

斯波貞吉関連書籍:国家的社会論

 黒岩涙香関連書籍:日本ミステリー小説史 - 黒岩涙香から松本清張へ (中公新書)

 帝国大学関連書籍:帝国大学 近代日本のエリート育成装置 (中公新書)

 

43.1904年(明治37年) 1月 8日 「●霞の糸」

一部引用↓

「◉逮捕 深川區西大工町一番地掬摸○分○甲勝事渡邊勝次郎は舊○○○の掬摸 渡邊清太郎が掬取りたる徳富蘇峰氏の鐡○懐中時計(五十圓)を纔か八十錢に買取りたる事露顕し此程警視廰の手に捕はれ昨日検事局へ送られたり」

 ⇒徳富蘇峰が掏摸(すり)にあい懐中時計を盗まれる、という史料。犯人の名前は「渡邊清太郎」である。

 

*掏摸関連書籍:掏摸(スリ) (河出文庫)

学究:高嶋米峰(20)関連史料[19]

前回同様、朝日新聞掲載分から確認していきたいと思います。

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30.1919年(大正8年) 9月 28日 「本日の集會」
一部引用↓

「▲明治會館(神田表猿樂町)商工徒弟慰安會後六時(慰安會の趣意)岡崎鐡三郎(努力と安慰)楠原龍○(實業修身訓)高島米峰コドモ會前八時」「▲求道會館(森川町)前九時(○來妙色身)近角常観後七時(佛之眞子)」「▲統一閣(淺草清島町)コドモ會前九時講演後一時、本多日生 井村日咸、長谷川義一▲傳道館(本郷蓬莱町)後七時清水龍山」「▲救世軍(本郷眞砂町)後二時(神我と偕に在り)山室軍平 ▲聖書講演會(大手町衛生會)後二時(モーセ十誡内村鑑三

⇒ 学究ブログではお馴染みの「本日の集會」。近角常観、本多日生、内村鑑三など、常連の名が確認できる。高嶋米峰は「商工徒弟慰安會」で「實業修身訓」という演説を行っている。これは所謂「経営論」に近い内容のものであると言えるが、米峰の見識の広さ(廃娼論禁酒論浪花節なども語る)には驚かされる。

 清水龍山は、越後国生まれの日蓮宗の僧で、立正大学の学長も務めた人物。

 

内村鑑三関連書籍:内村鑑三の人と思想

 

31.1919年(大正8年) 10月 5日 「本日の集會」

一部引用↓

「本郷區蓬莱町日蓮宗傳道館(長元寺)後六時半(法華経講義)清水龍山▲九段佛教俱樂部前九時(人生観と信仰)加藤智學」「▲本郷森川町求道全館前九時(眞解脱)近角常観」「▲神田表猿樂町明治會館後一時(傳教大師讃仰會について)荻野仲三郎(天台宗か天台學か)高島米峰(傳教弘法兩大師の對照)村上専精(佛教大師將來の佛像)中川忠順(傳教大師より法然上人へ)椎尾辨匡」「▲淺草清島町統一閣、前九時コドモ會後○時日曜講演(當體義鈔講義)本多日生(本佛の化導)木村日保(日蓮主義と勞資問題)松尾鼓城」「▲本郷眞砂町救世軍會館(人道の福音)山室軍平」「▲自由教會(娯樂の哲理)岸本能武太」

⇒またも「本日の集會」。

 荻野仲三郎は、明治30年三重県に生れ、同30年東大を卒業。国宝保存会委員、重要美術品等調査委員会委員、史蹟名勝天然紀念物調査委員会委員等を歴任し、古美術保存事業に尽力した。また陽明文庫の主管として管理の任にあたった人物である(以上、荻野仲三郎 :: 東文研アーカイブデータベースを参照)。

 中川忠順(なかがわただより)は、明治から昭和前期に活躍した東洋美術史家で、文部省や帝室博物館を勤務地とし活躍した。

 木村日保は、上総宮谷檀林と哲学館で学んだ僧侶。日什(玄妙)を開祖とする「顕本法華宗」で管長の役職についたこともある。

 岸本能武太(きしもとのぶた)は、明治から昭和初期に活躍した宗教学者同志社英学校、ハーバード大学で学ぶ。米国留学時に、ユニテリアン(キリスト教正統派教義の中心である三位一体(父と子と聖霊)の教理を否定し、神の唯一性を強調する主義の信仰。つまり、イエス・キリストを宗教指導者として捉え、神としての超越性は認めない信仰)に目覚める。比較宗教学会や社会主義研究会の創設にも取り組んだ人物である。

 

*中川忠順関連書籍:伊東忠太・中川忠順 厳島神社の 建築と美術: 平清盛の遺産と平家納経の世界 ディープな芸術の旅 観光と散策ガイド

 ユニテリアン関連書籍:ユニテリアンと福沢諭吉

            近世ハンガリー農村社会の研究―宗教と社会秩序

 

 

学究:徳富蘇峰(20)関連史料[19]

前回同様、朝日新聞掲載分から確認していきたいと思います。

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40.1903年(明治36年) 8月 17日 「●文壇週報 文壇子」
一部引用↓

「◉新聞紙上、近頃仰山に讀み受たる社説は、徳富蘇峯の『仰山病』なり、蘇峯、仰山を解して曰く「仰山病とは何ぞや、仰山とは仰山らしく吹聴するなり、大層らしく廣告するなり、大袈裟に輪を掛けて稱道するなり、如上の病症は、日常の新聞、雜誌、其の他の刊行物によりて最も分明に看取するを得べし、吾人は絶對的に仰山を非とするにあらざれども、仰山らしく吹聴する丈、それ丈その香味は減ずるが如く感ずるを禁ずる能はず」結論に曰く「人の言語文字は何處迄共思想観察を精確に代表するを得可き乎是れ吾人の斷言する能はざる所なれども吾人は及ぶ可き丈は自から欺かず人を欺かざることを期せざるべからず、誇張は則ち一種の虚僞にして不精確も亦た虚僞の一類たるを知らば之を○くるに於て決して餘力を剰す可きにあらざるなり」能く云ふた、世には腰○三千、全く一社の派遣記者として南北兩清を跋渉観光せしむる幾月、歸來その観察のプロダクシヨンは陰々として紙面に横溢し自ら其紙の重を爲す云はば微力の一新聞社としてはなかなかの大奮發なるも、その往くさ歸るさに曾て派遣云々を六號活字にてだに(仰山どころか)吹聴せざる新聞紙もあれば、三里先に社員を派遣するにも本名雅名迄附け、二號活字で仰山に吹聴せねば氣の濟まぬ新聞紙もあり、能く云ふた蘇峯能く云ふた(此一項陸沈堂主投稿)」 

 ⇒明治36年時に徳富蘇峰が主張していた「仰山病」論に関する記述。「仰山病」とは、物事を大げさに言いたがること、つまり誇張・針小棒大が蔓延することを指す言葉で、その症状は「新聞」「雑誌」で明瞭に現れているとする。

 この記事の執筆者は、蘇峰の「仰山病」論を「能く云ふた」と評価する。その理由として、どうでもいい内容のもの(今回は、記者の「派遣」に関するもの)が、新聞紙上で「六號活字」「二號活字」を用いて報道されていた例が挙げられている。ちなみに「六號活字」「二號活字」とは「号数活字」の一種で、最も大きい活字を初号とし、次に一号から順次小さくなり八号にいたる、九段階の和文用の活字である。よって「六號活字」と「二號活字」では、後者の方が文字が大きい。

 

*「「真実」が歪められるということ」に関連する書籍:

 「ポスト真実」の時代 「信じたいウソ」が「事実」に勝る世界をどう生き抜くか

 「ポスト真実」時代のネットニュースの読み方

 「ポスト真実」にどう向き合うか (「石橋湛山記念 早稲田ジャーナリズム大賞」記念講座2017)

 「ポスト真実」の世界をどう生きるか―ウソが罷り通る時代に

 

41.1903年(明治36年) 8月 22日 「●人」
一部引用↓

「▲徳富猪一郎氏 昨日名古屋に赴く」

⇒徳富猪一郎の動向が、新聞紙上で伝えられている。

学究:高嶋米峰(19)関連史料[18]

前回同様、朝日新聞掲載分から確認していきたいと思います。

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29.1919年(大正8年) 7月 20日 「本日の集會」

一部引用↓

「▲明治會館講談×會後六時高島米峰、細川風谷、大谷内越山村山島逕、野口復堂、天野雉彦 ▲佛教俱樂部(九段)午前九時加藤智學」

⇒「細川風谷」は、若き頃、杉浦重剛尾崎紅葉のもとで学んだ、日本郵船の社員で、退社後は講談師として活躍した人物である。

「野口復堂」については、@naagita先生の野口復堂|nāgita|noteが参考になりますので、そちらをご覧ください。

「天野雉彦」は、巌谷小波らとともに活躍した明治から昭和期を代表する童話作家。講釈師の名跡・初代伊藤痴遊(井上仁太郎)の影響を受けて、講談と童話の折衷的方法である「趣味講演」を発案。「学究:高嶋米峰 関連史料」でお馴染みの「加藤咄堂」からの影響もあり、各地への巡回を行った。

 

杉浦重剛関連書籍:昭和天皇の学ばれた「倫理」―倫理御進講草案抄

 尾崎紅葉関連書籍:金色夜叉 (新潮文庫)

          和装のヴィクトリア文学―尾崎紅葉の『不言不語』とその原作 (東海大学文学部叢書)

 巌谷小波関連書籍:日本昔噺 (東洋文庫)

          巌谷小波日記〈自明治二十年至明治二十七年〉翻刻と研究 (白百合児童文化研究センター叢書)

 伊藤痴遊関連書籍:隠れたる事実 明治裏面史 (講談社文芸文庫)