学究:徳富蘇峰(23)関連史料[22]

前回同様、朝日新聞掲載分から確認していきたいと思います。

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45.1904年(明治37年) 4月 11日 「●随感随筆 彌生山人」

一部引用↓

「○廣く用ひられる語の利益 然るに又今度になつて山人は英語の利益を感じたのである未だ獨逸語流行の初期頃であつた徳富蘇峰君は山人に向つて御互ひに英語を學んだ人は損ですなア英語は有觸れて居て有難味が少いマコーレーが何と書いて居たとかカーライルが何と云つたとか説いても人が知つて居るから人の感服し方が少いがシルレルが何とかスピノザが何だか云ふと有觸れて居ないから何だかエラ想に見えると話し合つた事があつた然るに今度日本が義戰を起したに就て露國は我が國を○○(「ぺてん」と読む)だとか何とか捏造説を流布しやうと掛つたけれども露國の新聞は讀む人が少いから之に欺される人が少い之に反して英語は世界何處にも讀まれるから英語の新聞が一たび露國の負惜み説を反駁すれば世界の人民は乍ちにして露の非道を知り日本の正當を悟るのである」

⇒この史料は、執筆者が「英語を学んでいてよかった」と思った出来事について述べているものである。執筆者は、自身と同じく英語を学んでいた徳富蘇峰との遣り取りをとりあげている。すなわち、英語で読むことができるマコーレーやカーライルの論を幾ら知っていても、それは珍しいことではなく、一般的に知られている情報でしかない。それに比べて、ドイツ語の本を読める場合は、シルレルやスピノザなど、多くの人がまだ把握・認識していない情報について知ることができる。そう考えて見ると、能力の希少価値から言うと、英語よりドイツ語を学んでいた方がよかった、というのである。

 ただ、その認識は、1904年(明治37年)2月8日より勃発した日露戦争を契機に変化する(史料中の「義戦」という言葉にも注目して欲しい)。露国語で書かれた新聞による日本批判については、そもそも露国語を扱う人口が少ないことから、その普及度は低い。それに比べて、英語で書かれた新聞は、言語的な障壁も少ないために、多くの人に読まれることが想定される。その新聞で、いかに露国の日本批判が誤りであるのかが示されれば、その影響力は絶大であると説いている。

 最初は、あまり使用されていない言語を扱えた方が、能力として希少価値があると考えていたのが、日露戦争をきっかけとして、多くの人が扱う言語を身に付けた方が優位であると考えるようになった。これは大変面白い変化であると言える。

 

*カーライル関連書籍:カーライル選集 1 衣服の哲学

           カーライル選集 2 英雄と英雄崇拝

           カーライル選集 3 過去と現在

 

46.1904年(明治37年) 5月 5日 「●ストルジ博士歓迎會」

全文引用↓

「今回來遊のストルジ博士の爲め珍田捨巳、島田三郎、江原素六、本多庸一、徳富猪一郎、安藤太郎の諸氏發起となり來七日午後二時より青年會館に於て歓迎會を催す博士は多年日本人に對し大なる同情と尊敬とを表し渡米本邦青年の爲に拮据盡力する處少からざる人なり」

⇒「ストルジ博士」の歓迎會が催される予定であることが伝えられている記事。「ストルジ博士」が何者であるのかは不明(このブログを見ている方でお分かりの方がいれば教えて頂けるとありがたいです)。推測だが、本多庸一と珍田捨巳はメソジスト派キリスト教者、島田三郎、江原素六キリスト教への篤い信仰心をもつ人物であるため、「ストルジ博士」はキリスト教と何らかの関係がある人物かもしれない。

 珍田捨巳は、明治から昭和初期に活躍した外交官。東奥義塾で本多庸一から学び、キリスト教の信仰心に目覚めた。在サンフランシスコ日本領事などを務めた後、昭和天皇の皇太子時代(裕仁親王)の教育係(東宮大夫)として宮中で活躍した(裕仁親王は珍田の他に足立タカ、山本信次郎からも教育を受けているが、彼等もクリスチャンである)。

 

*珍田捨巳関連書籍:ポトマックの桜物語:桜と平和外交

 「天皇キリスト教」関連書籍:天皇とキリスト: 近現代天皇制とキリスト教の教会史的考察

                十五年戦争期の天皇制とキリスト教 (シリーズ近現代天皇制を考える 3)