学究:徳富蘇峰(54)関連史料[53]

前回同様、朝日新聞掲載分から確認していきたいと思います。

____________________________

79.1909年(明治42年) 6月 1日 「世界見物 藪野椋十(卅四)他生の緣 車中の友達― 煙草の交はり―無言の友―日本の猫の數―穴のある錢―漱石型と蘇峰型」

全文引用↓

「汽車の中で大分友達が出來た、其内に直接に出來た無言の友と、通辯は介まつたのとの區別がある、喫煙室で何時もよく隣に座りあはせる老爺がある。鼻柱の二段曲つて今一曲り曲りかヽつた處を生憎終ひに爲つた様なむづかしい格好の鼻と俺は見て居るが、先方では又俺の事を鼻の小さい――はなといふより蕾の老爺と思うとるぢやらう。何遍目からか雙方目禮しあふ様になつた。何とか話しかけられたこともあつたが、俺からは話しかけぬ、其處は俺が眼が高いのぢや、先方は俺を英語を話す人と買ひ被つたのぢやらうが、俺は先方が迚も日本語の話せぬものと一目に見極めて了つたのぢや。尤も近來俺も中々英語が話せるし日進の勢ひで文字は數の有らん限り覺して了つたし(たツた廿六字しか無いのだけれど)言葉數も無慮百餘りも使へる様に爲つて居るし、準備して來た中等教科書に依つて歐米の地理歴史の大要も腹に入れて、略治亂興廢の跡を知り、外國にも古へより仁義道徳の道あることや、忠魂義膽も強ち日本軍人の一手物で○無い事まで看て取つて居る一角の西洋通であるから、彼の老爺さんが買被るも無理ではないが、實の處英語ばかりで話すにはちと不足ぢや。ぢやから、已むを得ざるに出ざれば我の短を以て彼の長に對ふことはせぬ。古へより財を以て彼の長に對ふことはせぬ。古へより財を以て交はる者もあれば酒食を以て交はる者もある。道を同くして交はるもあれば、癖が似てるで交はるもある。
俺と彼の二段曲り半の鼻の老爺とは煙草で近き、眼色で親み、交らなくて交はつて居るのである。彼の指は俺のより倍太い、俺のが土を掘つたのであれば、彼の働いて來て餘計金溜めた爺に違ひない、面の皮も慾の皮も俺のより好く鍛へてありさうな、話させたら聞いたばかりで何がしか得のいく様なキビキビとした金蓄談をするであらうもの。
苔野が通辯で出來た友達には、早速に損をさせられる。「叔父さん、何か此の少年にやる者は有りませんか、日本の貨幣でもあれば見慣れぬから喜びますよ」といふ。貨幣ならば見慣れたつて貰へば喜ぶに相違ない、何も少年に限つたことは無い、併し末の子に似た年輩と思へば可愛くもあるから、一錢銅貨をやつた。苔野が通辯で此の少年はなかなか饒舌る。
 「叔父さん、世界廻るんだつてネ、面白いでせう、色々な動物が居て……あの日本に猫が居ますか。
 「居りますとも。
 「鳴きますか。
 「それは鳴きますとも。
 「何と言つて鳴くの、叔父さん。
 「ニヤゴニヤゴ(と鳴聲をまねてきかせると子供は大喜び)
 「面白い鳴き聲だ、そして其は大きいでせう。
 「子猫は小さい、親猫は大きいな。
 「どの位。
 「困つたな。まづ此の位(と手真似をして見せる)
 「そんなに、大きいの、そして其んなのが何匹居るの、日本には。
俺にも苔野にも到底解らんことに爲つた。先方が成人なれば直に亞米利加の鼠の數でも訊いてやるけれども子供では喧嘩にならぬ、こちらが大負ぢや、はヽヽヽ。
其れから子供の親が先刻の銅貨の御禮をいふ。一處に來た其友達と來て共に色々の貨幣の談に渉つて巾着から卅種許りの金銀銅貨を出した、其中に乾隆通寶が一枚ある、我等の眼には何ともないが卅餘種の中では目立て見したる、持主は四角な孔が變だ、孔が圓いのが便利だらうと言ふ、苔野が成程と感心して居るから、俺は急に「其感心は取消せ取消せ、そもそも錢は天は圓く地は方なりとの象徴で深い意味のあることぢやと言へば、苔野は「駄目ですよいくら象どつてばかりあつたつて、現在見た眼に面白くなく使ふに便利でなくては誰も感心しませんから」
食堂車で苔野が屡俺の袂を牽いて注意した人物が有つた、後に聞けば苔野が崇拝する兩先生にそつくりといふ事だ、一人は漱石先生に痘痕の無いばかりで額から眼、鼻、髯の撥ね具合寸分違はぬといふ、娘の子二人を伴れて一の食卓を圍んで默つたきりで食事を濟ませた。今一人は半白の男で年下の男と差向ひ、盛んに饒舌りもすれば喫べもする忙しい間に、やれ、忘れて居たと大急ぎに眼をしばたたく、其時の小鼻と鼻の孔の格好が蘇峰先生に彷彿ぢやげな。」

⇒藪野椋十(やぶのむくじゅう、別名・渋川玄耳(しぶかわげんじ))の世界見聞記の中の一話である。一記事として、大変長文であるため、段落ごとに簡単な纏めを行なう。

 一段落目では、著者が長い汽車旅行の中で経験した「友達づくり」のエピソードが記されている。著者は日本人であるため、英語の能力が十分だとは言えず、一方汽車の中で出会う人は日本語が話せない。このように言語の壁があるときであっても、言語以外の方法で交友を結ぶことはできると、藪野は語っている。その具体例が、二段落目で示される。

 著者が汽車内で出会ったある老人とは、互いに「煙草」を好むということで近付き、言語的コミュニケーションはなくとも、目で挨拶を交わす。著者は相手からの自己紹介を聞かないままに、容貌などから性格を予想している。

 三段落目では、藪野(と彼の旅仲間・苔野)が汽車の中で出会った子どもとの「猫」に関する会話が紹介されている。へたに通辯(通訳)がうまく交わされたりすると、あまりいいことには繫がらないと、藪野は主張したいようだ(記事中では、一銭銅貨をあげる/猫の話を長々することになった)。

 四段落目では、三段落目での「一銭銅貨」の話が派生して、「乾隆通寶」に関する議論が展開している。議論の中身は「どうして、乾隆通寶の孔は四角いのだろう?」であった。

 五段落目では、旅仲間・苔野が汽車の中に発見した「夏目漱石」と「徳富蘇峰」のそっくりさんの様子が記されている。これがもし本物であったら……面白い。

 最後に、この記事の執筆者である藪野椋十について。藪野は、主に「渋川玄耳」の名で、明治期を中心に活躍したジャーナリストで、フリージャーナリストの先駆けとも言われる。陸軍法務官として熊本県に在住していた際、夏目漱石主宰の俳句結社紫溟吟社に参加し、機関紙『銀杏』を創刊。熊本の俳句文化に大きな影響を与えた。また、日露戦争時に従軍法務官として満州に出征した際、弓削田精一(東京朝日新聞特派員)と親しくなり、『従軍三年』を出版、さらに弓削田の推薦で池辺三山主筆(熊本出身)に請われ、東京朝日新聞に入社した。「辣腕社会部長」として活躍する。(夏目漱石石川啄木を東京朝日新聞で繫げたのも藪野の働きかけによる。『一握の砂』の序文は、藪野椋十により執筆される)。1912年11月に東京朝日新聞を退社後は、フリーランスとなった。

 

渋川玄耳関連書籍:佐賀この地この人 (1985年)

          玄耳と猫と漱石と

          評伝 渋川玄耳

 池辺三山関連書籍:文学者の日記〈1〉池辺三山(1) (日本近代文学館資料叢書)

          文学者の日記〈2〉池辺三山(2) (日本近代文学館資料叢書 第1期)

          文学者の日記〈3〉池辺三山(3) (日本近代文学館資料叢書 第1期)