学究:高嶋米峰(6)関連史料[5]

前回同様、朝日新聞掲載分から確認していきたいと思います。

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 10.1913年(大正2年) 12月 14日 「●藝妓退治の演説」

一部引用↓

「▲矢島楫子女史等が今期議會に男子姦通罪の構成を請願すると云ふ處から男子貞操問題や藝妓問題が時節柄注意を惹くようになつた、かう云ふ機會を利用して廓清會では十四日夜六時から神田青年會館に藝妓問題演説會を開いた
 ▲「芝花月の女将は私は知らぬが女の将と云ふから屹度女の中の大将だらう」から始めて花月女将の例の藝妓論を駁し、蓄妾課税藝妓増税論を説いたのが高島米峰氏だ」

⇒矢嶋楫子らによる男子姦通罪案の請願運動をきっかけとした「藝妓問題演説會」において、高嶋米峰が「蓄妾課税藝妓増税論」を主張したという記事。これまで見てきた記事を通してみても、高嶋が風俗問題に積極的に取り組んでいたことが分かる。

 

*矢嶋楫子関連書籍:われ弱ければ―矢嶋楫子伝 (小学館文庫)

          矢嶋楫子の生涯と時代の流れ (熊日新書)

 

11.1914年(大正3年) 1月 18日 「●新佛教會演説會」

全文引用↓

「十八日午後六時本郷上宮教會に開會三輪華城、大住嘲風、高島米峰、加藤咄堂の諸氏出演の筈」

⇒「新佛教會演説會」の告知文。

 

※今回は二つの記事まで