学究:徳富蘇峰(14)関連史料[13]

前回同様、朝日新聞掲載分から確認していきたいと思います。

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30.1901年(明治34年) 8月 10日 「つどひ」

一部引用↓

 「敎育家茶話會 十一日午後二時帝國敎育會に於て開催長岡子爵徳富猪一郎寺田勇吉氏等の演説あるべし」

 ⇒記事中の「長岡子爵」とは、長岡護美天保13年9月19日~明治39年4月8日)のことである可能性が高い。長岡は、明治期に活躍した外交官・貴族院議員で、錦鶏間祗候(きんけいのましこう)麝香間祗候(じゃこうのましこう)といった名誉職にもついた(上記の名誉職は、明治維新の際に功労のあった華族・官吏を優遇する必要性から、明治期半ばに設けられた資格)。

 寺田勇吉は、明治~大正期に活躍した教育者で、日本橋高等女学校、日本体育会体操学校(日本体育大学の前身)での教育活動に従事した。

 

明治維新関連書籍:明治維新 (岩波文庫)

          江戸東京の明治維新 (岩波新書)

 

31.1901年(明治34年) 10月 27日 「●松方伯の経済談」
一部引用↓

 「廿日會と云ふは熊本人の経済研究會であるが同會は一昨日午後四時より會員以外の人々をも案内して秋季大會を上野の精養軒に開いた會せる者は清浦奎吾、松平正直、藤島正健、徳富猪一郎、津田静一の諸氏を始め三十餘名で主賓は松方伯であつた伯はいまだ中々の元氣で會員の請に應じて一場の談話をせられた其の談話は経済界の八面鋒とも題すべきもので色々様々述べ立てられた記憶の儘を略記すれば先づ左の如くである(以下、省略)」

 ⇒熊本出身者が中心となって運営する「廿日會」が開催する「秋季大會」の模様を伝えた記事。記事中にある清浦奎吾藤島正健徳富猪一郎津田静一は熊本出身。松平正直は、慶応3年(1867年)、坂本龍馬が福井を訪れ、三岡八郎(後の由利公正)と面談した際に、立会人を務めたことで知られる、後に内務官僚となった人物である。津田静一は、「紫溟雑誌」「九州日日新聞」を創刊し、国権論を主張した人物で、南米・台湾を対象とした植民政策にも取り組んだ。 

 

由利公正関連書籍:幕末・維新人物伝 由利公正 (コミック版日本の歴史)

 

 

学究:高嶋米峰(13)関連史料[12]

前回同様、朝日新聞掲載分から確認していきたいと思います。

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18.1916年(大正5年) 9月 27日 「青鉛筆」

一部引用↓

「▲大藏次官の菅原通敬君が近來僕は三吹主義の信者になつたと気焔を吐く、其三吹主義といふは第一朝起きて法螺貝を吹く、第二晝は尺八を吹く、第三夜は屁を吹くといふのだ、人が笑ふとムツトした顔で「何が可笑しい、法螺と尺八とはあの大隈侯に法螺貝贈つた澤來太郎君に敎はつたのだが屁は高島米峰先生のヂキ傳であつて資本入らずの近代式衛生法だ」」

 ⇒沖縄県収税長、税務監督官・主税局内国税課、函館税務管理局長、神戸税務監督局長、大蔵書記官・主税局内国税課長、主税局長などを歴任した菅原通敬の意外な一面を示した記事。

「三吹主義」という言葉は、この史料が初見であり、朝に法螺貝、昼に尺八、そして夜に屁を吹くことが、健康に繋がるという主張である。法螺貝と尺八による健康法を示した沢来太郎(さわ・らいたろう)は、公愛会や血誠義団を組織した自由民権家で、後に衆議院議員として活躍した。夜の健康法「屁を吹く」を高嶋米峰が教授したという事実は大変面白く、同時に大蔵次官のような官僚との親和的な繫がりも確認できる。 

 

*大蔵省関連書籍:財務省と政治 - 「最強官庁」の虚像と実像 (中公新書 2338)

 自由民権運動関連書籍:自由民権運動――〈デモクラシー〉の夢と挫折 (岩波新書)

            自由民権運動史への招待

            明治デモクラシー (岩波新書)

学究:徳富蘇峰(13)関連史料[12]

前回同様、朝日新聞掲載分から確認していきたいと思います。

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29.1901年(明治34年) 6月 18日 「●婦人矯風會の創設者」
全文引用↓

「佐々城豊壽女史は去る十五日永眠に付き昨十七日午前日本橋敎會に於て葬儀執行安藤太郎徳富猪一郎内村鑑三諸氏の追悼演説あり式後染井の墓地に埋葬したり」

 ⇒佐々城豊寿は、中村正直の私塾・同人社女学校で漢学を学び、メアリー・キダーの塾(フェリス女学院の前身)の一期生としても学んだ女権運動家である。矢嶋楫子らと東京婦人矯風会を結成したことで知られる。佐々城豊寿の長女・信子は、国木田独歩の最初の妻で、有島武郎或る女』のモデルとして有名。

 佐々城豊寿の葬儀における追悼演説には、安藤太郎・徳富猪一郎・内村鑑三が登壇。安藤太郎は、戦前期の外交官で、キリスト教徒を中心とした東京禁酒会(後に日本禁酒同盟会に改編)を軸に日本の禁酒運動を指導した。

 

中村正直関連書籍:西国立志編 (講談社学術文庫)

          現代語訳 西国立志編 スマイルズの『自助論』 (PHP新書)

          中村敬宇 (人物叢書)

 国木田独歩関連書籍:武蔵野 (新潮文庫)

           国木田独歩論 (日本の近代作家)

 有島武郎関連書籍:有島武郎: 世間に対して真剣勝負をし続けて (ミネルヴァ日本評伝選)

          有島武郎 (Century Books―人と作品)

          『或る女』とアメリカ体験――有島武郎の理想と叛逆

 安藤太郎関連書籍:増補版 安藤太郎文集 (日本禁酒・断酒・排酒運動叢書)

学究:高嶋米峰(12)関連史料[11]

前回同様、朝日新聞掲載分から確認していきたいと思います。

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17.1916年(大正5年) 7月 17日 「青鉛筆」
一部引用↓

「▲志賀重昂君曰く「日本には「馬鹿」といふ調法な言葉がある、一言にして百千言を費すよりも利目があつて攻撃力も強く底力もある、僕は外國へ行つて外人が無禮な言語や行動をするとクドクドと云はずに大喝一聲バカ―ッと吐鳴つて睨みつける、大概は眼を圓くして辟易して了ふよ」▲高島米峰中平文子の兩人は、五日上野精養軒で會合し従來の係争事件を圓滿に解決した許りでなく文子は將來米峰氏の助言を乞ふべきを約して分れたさうだ▲該事件の不起訴の決定の傳へられたのは右和解の會合の果てし後であつたと云ふ」

 ⇒一つ目の▲では、志賀重昂の「馬鹿」論が展開されている。「馬鹿」という言葉を、「一言にして百千言を費すよりも利目があつて攻撃力も強く底力もある」という表現で評価する人物を初めて見た。

 二つ目・三つ目の▲は、高嶋米峰中平文子が和解した旨が示されている(何によって争っていたのか、そこまで調べることはできなかった。ただ三つ目の▲において、「該事件の不起訴」の一文があるため、裁判が開かれそうになるほどのトラブルが起こっていたことは把握できる)。中平文子は、小説家兼翻訳者の武林無想庵との結婚(後、離婚)、貿易商宮田耕三と契約結婚など波乱万丈の日々を送り、戦後は自伝や旅行記の執筆で活躍した随筆家である。最初の夫であった武林無想庵は、小山内薫(雑誌「七人」を通じて)や柳田國男(「竜土会」を通じて)などの人物との交流をもっていた。

 

志賀重昂関連書籍:日本風景論 新装版 (講談社学術文庫)

 武林無想庵関連書籍:無想庵物語 (文春文庫)

 小山内薫関連書籍:小山内薫―近代演劇を拓く

          僕の二人のおじさん、藤田嗣治と小山内薫

 柳田國男関連書籍:柳田国男 ──知と社会構想の全貌 (ちくま新書)

 

学究:徳富蘇峰(12)関連史料[11]

前回同様、朝日新聞掲載分から確認していきたいと思います。

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27.1900年(明治33年) 5月 26日 「随感随筆 彌生山人」

一部引用↓

 「○握力 中上川彦次郎氏は握る力が強いと云ふが是は本當の手で握る腕力の事で握力を計る器械で試すと直に何度と云ふ事が分るのである徳富猪一郎氏の握力も餘程強いそうだが山人は兩氏ともに其の度を聞き漏らした」

 ⇒三井財閥の工業化・三井銀行不良債権処理を推進・三井家の最高議決機関「三井家同族会」設置などの功績から「三井中興の祖」と呼ばれる中上川彦次郎と、本ブログで追い続けている徳富猪一郎は「握力」が強いらしい、という(どうでもいい)記事。

 

*中上川彦次郎関連書籍:中上川彦次郎の華麗な生涯

            明治期三井と慶應義塾卒業生

 

28.1900年(明治33年) 10月 11日 「△紅葉館の密會」
全文引用↓

「徳富猪一郎都筑馨六野田卯太郎永井純一の諸氏は一昨日正午頃より麻布なる長谷場氏の邸に集會し何事か内議する處ありしが夕刻より更に席を紅葉館に移し引續き密談數刻に渡りたり」

⇒ 徳富猪一郎・都筑馨六・野田卯太郎・永井純一による紅葉館での密談。野田卯太郎は筑後国豪農の家に生まれ、逓信大臣、商工大臣などを務めた。一平民から大臣にまで昇った立身出世の体現者として知られる。柴田徳次郎の私塾国士舘開設の関係で、頭山満中野正剛緒方竹虎らとの繫がりもあった。

 

*野田卯太郎関連書籍:地方からの産業革命 -日本における企業勃興の原動力-

 柴田徳次郎関連書籍:日本はこうすれば立直る (1964年)

 中野正剛関連書籍:憂国の士 中野正剛

          アジア主義者中野正剛

 緒方竹虎関連書籍:緒方竹虎とCIA アメリカ公文書が語る保守政治家の実像 (平凡社新書)

          緒方竹虎―リベラルを貫く

          緒方竹虎 (人物叢書)

 

 

学究:高嶋米峰(11)関連史料[10]

前回同様、朝日新聞掲載分から確認していきたいと思います。

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16.1916年(大正5年) 6月 17日 「青鉛筆」

一部引用↓

 「▲奉天の張將軍暗殺の嫌疑を蒙つた支那通の内田良平君は講道館の柔道五段である、所が同君は昇段の秘訣を語つて曰く「柔道の昇段をするには練習ナンテ生ぬるい事をしても駄目だ、何でも外國に行つて喧嘩するに限る、僕は朝鮮人と喧嘩して歸つた後二段から三段になり、滿洲で支那人と大喧嘩して四段、シベリアで露國人とやつて歸朝後五段になつたよ」▲新らしい女嫌ひで藝者嫌ひの高島米峰氏が今後の私娼退治に滿足せず「私娼は千束町や蠣殻町ばかりでない新橋でも赤坂でも花柳界皆然りだ、之に對して警視廰は何をして居るのかアーン」」

 ⇒文中に出てくる内田良平は、頭山満玄洋社、並びに黒龍会で活躍した、戦前を代表するアジア主義者。武芸の才能で知られた内田良五郎の三男で、幼児から種々の武術を指導された。記事内容は、内田良平が柔道五段にまで至った方法として「喧嘩」をあげており、その相手は朝鮮人支那人・ロシア人ら外国人である。少し変わった観点から、内田良平アジア主義精神を垣間見ることができる。

 次に、二つ目の▲の記事は、高島米峰が「女嫌ひで藝者嫌ひ」として紹介され、「警視廰」による私娼取り締まりが不十分であると叱責する様子が描かれている(最後の「アーン」には思わず笑ってしまった。よくヤンキー・不良の類が使う「アーン」と同じ意味だろうか?)。

 

内田良平関連書籍:国士 内田良平―その思想と行動

          玄洋社怪人伝――頭山満とその一派

          シナ人とは何か―内田良平の『支那観』を読む

 

学究:徳富蘇峰(11)関連史料[10]

前回同様、朝日新聞掲載分から確認していきたいと思います。

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 25.1898年(明治31年) 11月 19日 「松方伯の動静」

全文引用↓

「十八日午後一時大阪特發

松方藏相は昨日演習陪観の後旅館を北區の川上佐七郎氏方に移し午後六時より桂陸相來り密談の後午後九時頃徳富猪一郎氏訪問暫くにして伯は平野町に旅宿せる侍従職幹事を訪ひ密談午後十一時に至り旅館に歸れり其事柄は山縣侯板垣伯會見に關する事ならん」

松方正義徳富蘇峰の交流が確認できる記事。

 

松方正義関連書籍:松方正義―我に奇策あるに非ず、唯正直あるのみ (ミネルヴァ日本評伝選)

 

26.1899年(明治32年) 4月 1日 「●海舟翁冥途からの電話」
全文引用↓

 「お前朝日新聞かへ、己れは寂光浄土の蓮臺に住つて居るが日々三條公を始め老西郷大久保木戸山岡等の友人や、後藤陸奥の後進と娑婆の夢物語りをして居るよ、時々大久保彦左衛門まで出て來て大平樂を云ふよ、中島信行も遣て來たよ、たまには傳敎弘法親鸞日蓮の故参坊主や佐田介石福田行誡原坦山釋五岳の輩が駄法螺を闘はすも妙だよ、娑婆に居て氷川の小室に君等を相手にクダラぬ話をして居たよりは霄壤の差だよ、田口卯吉も法學博士になつたと云ふが餘り感心の出來ぬ経済論を吹立た爲め甘く當つて博士の肩書を貰つたが、併し本人は文學博士にならなかつたからチト不滿足かも知れぬ、ナーニどつちにした所が文部大臣から貰つた學位だもの餘り有り難くもないよ、伊東巳代治は樞密顧問官に任ぜられたソーな、あれの親父は己れの長崎に行つた頃遣つて來た事があつたよ、あんな小僧が天皇陛下の至高顧問官だとよ聞てあきれちァ、此れだから己りや娑婆を去る前に顧問官を止めると辭表を出したのだよ、江原素六も馬鹿だよあの位の御人善しで自由黨の御先に遣はれ星亨や林有造の如き野心家の喰物になつて居るかと思へば己りや江戸ッ兒の爲め遺憾に思ふよ、君が逢つた時モー自由黨の提灯持は止して性根に似合つた後進者の教育とアーメンとを唱へて君子人を以て終れと己れがソー云つたと傳へて呉れー、島田三郎に逢つたらモーイヽ加減で人悪るの集合体な政界を脱して教育家か宗教家にでもなれと忠告して呉れよ徳富猪一郎は何して居るエ高等官の任用令は改正されたからモー仕官を思ひ切つて新島の傳でも書て遣ればイヽのよ……エヽ徳川慶喜公はドウしたて、ナニそんな事はないよ、若し事實なら己れの冥府に來るや否斯かる事を仕出かす以上は悪い奴等だから己りや冥罰をあたへてやるよ、己れと一所に御座る家康公に済まぬよ、まだ話したい事はあるが長距離の電話料は高いから今日は是れでよすよ」

 ⇒この記事の内容(設定)は大変興味深い。記事掲載日は「1899年(明治32年) 4月 1日」で、勝海舟が没したのが「1899年(明治32年)1月19日」勝海舟が亡くなってからおよそ三カ月後に新聞紙上に示されたものである。

 内容は至ってシンプルで、勝海舟朝日新聞(の記者)に対して、「寂光浄土の蓮臺」に居ながら、西郷隆盛大久保利通ら幕末から明治初期の激動期をともに生きた者たちと語り合っていること(西郷も大久保もすでに亡くなっている。つまり所謂「あの世」で彼らは語り合っている)、また、最澄空海親鸞日蓮といった鎌倉期に活躍した僧侶と、佐田介石・福田行誡・原坦山・釋五岳といった幕末から明治期に名をはせた僧侶が、駄法螺を吹きあう(大げさな話をしあう)様子も、描かれている。(勿論、上記にあげた僧侶達は、全員故人である。)

 記事の中盤から後半にかけては、いまだ地上に生きる者たちへの勝海舟からの苦言・アドバイスが列記されている。この内容も非常に面白い。その対象は、田口卯吉、伊東巳代治、江原素六、島田三郎、徳富蘇峰である。徳富蘇峰へのアドバイスは「政治家の職から離れて、新島襄の伝記でも著せ」という内容であった。

 この記事の内容は、恐らく(いや、ほとんど間違いなく)フィクションである。

 ただ、「まだ話したい事はあるが長距離の電話料は高いから今日は是れでよすよ」という凝った終わり方も含めて、「なぜ、このような記事が書かれるにいたったのか」について考察していく必要を感じた。(周辺記事を確認した限りだと、その理由を説明できるものはなかった。)

 勝海舟の死後、「彼の評価がどのような過程を経て形成されていったのか」について、今後は考えていきたいと思う。

 

勝海舟関連書籍:氷川清話 (角川文庫ソフィア)

         勝海舟 (人物叢書)

 佐田介石関連書籍:教諭凡道案内

 原坦山関連書籍:禅学心性実験録/耳根円通妙智療法秘録

 伊東巳代治関連書籍:大日本帝国憲法衍義―伊東巳代治遺稿 (近代日本憲法学叢書 (2))

 新島襄関連書籍:新島襄―良心之全身ニ充満シタル丈夫 (ミネルヴァ日本評伝選)