学究:高嶋米峰(12)関連史料[11]

前回同様、朝日新聞掲載分から確認していきたいと思います。

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17.1916年(大正5年) 7月 17日 「青鉛筆」
一部引用↓

「▲志賀重昂君曰く「日本には「馬鹿」といふ調法な言葉がある、一言にして百千言を費すよりも利目があつて攻撃力も強く底力もある、僕は外國へ行つて外人が無禮な言語や行動をするとクドクドと云はずに大喝一聲バカ―ッと吐鳴つて睨みつける、大概は眼を圓くして辟易して了ふよ」▲高島米峰中平文子の兩人は、五日上野精養軒で會合し従來の係争事件を圓滿に解決した許りでなく文子は將來米峰氏の助言を乞ふべきを約して分れたさうだ▲該事件の不起訴の決定の傳へられたのは右和解の會合の果てし後であつたと云ふ」

 ⇒一つ目の▲では、志賀重昂の「馬鹿」論が展開されている。「馬鹿」という言葉を、「一言にして百千言を費すよりも利目があつて攻撃力も強く底力もある」という表現で評価する人物を初めて見た。

 二つ目・三つ目の▲は、高嶋米峰中平文子が和解した旨が示されている(何によって争っていたのか、そこまで調べることはできなかった。ただ三つ目の▲において、「該事件の不起訴」の一文があるため、裁判が開かれそうになるほどのトラブルが起こっていたことは把握できる)。中平文子は、小説家兼翻訳者の武林無想庵との結婚(後、離婚)、貿易商宮田耕三と契約結婚など波乱万丈の日々を送り、戦後は自伝や旅行記の執筆で活躍した随筆家である。最初の夫であった武林無想庵は、小山内薫(雑誌「七人」を通じて)や柳田國男(「竜土会」を通じて)などの人物との交流をもっていた。

 

志賀重昂関連書籍:日本風景論 新装版 (講談社学術文庫)

 武林無想庵関連書籍:無想庵物語 (文春文庫)

 小山内薫関連書籍:小山内薫―近代演劇を拓く

          僕の二人のおじさん、藤田嗣治と小山内薫

 柳田國男関連書籍:柳田国男 ──知と社会構想の全貌 (ちくま新書)