学究:高嶋米峰(48)関連史料[47]

前回同様、朝日新聞掲載分から確認していきたいと思います。

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63.1925年(大正14年) 11月 22日 「けふ上野に展観の御物『法華經義疏』 奇跡的に傳つた聖徳太子御自筆の草稿本 高島米峰

全文引用↓

「萬世一系の皇室と、國體の尊嚴とを外にして、世界に誇るに足るべきものを、余り多く有して居ない日本において、法隆寺のがらんと、聖徳太子御自筆の『華法經義疏』(字ミス)草稿本とは、正に、「世界寶」たるべきものであると確信する。
 法隆寺のがらんの中、金堂と五重塔と中門と回廊とが、木造建築にして、千三百余年の歳月を經、しかも、今尚、新築當時の面目をさながらに傳へて居るといふことは、全く世界に類例を求めることの出來ないものであることは、たれでも、一種の奇跡として、驚歎して居るところである。それにも比すべき奇跡的存在は、即ち右の『法華経義疏』四巻が、極めて完全に、帝室の寶庫に、今現に藏せられて居ることである。
 聖徳太子が『勝鬘經』と『法華經』と『維摩經』との注釋を、著述し給ひしことは、権威ある多くの記載があるばかりでなく、その三部の注釋は、今現に、世上に流布し、その道の教權とされて居るのであるが、まさかに、その草稿本などが、今まで存在して居やうなことは、全く以て考へられなかつたところである。然るに、大正七年であつたと思ふが、『法隆寺大鏡』の編纂者の出願に依つて、曾て法隆寺から、帝室へ献納し、今は、御物となつて居る幾多の靈寶の撮影を許された時、この『法華經義疏』四巻も、共に撮影を許されたのであるが、これを拝観して、僕等は、實に、不可思議の因緣に感激をさへ覺○たのである。それは、大正十年が、聖徳太子薨後千三百年に相當するといふので、これを記念するために、國民擧つて、太子精神の復興をしなければならないと考へ朝野名士が、いろいろと、そのために、努力して居たその大正七年に、太子御自筆の草稿本が、再び世に出て來たといふことは、決して、偶然なことではないやうな氣がしたのである。
 この『法華經義疏』を、太子の御自筆の草稿本であると断定するには種々なる議論がある。しかし、今は、さうした考證や論議を避けて、結論だけを述べるならば、第一、その用紙が、奈良朝以前のものと推定し得べきこと。第二、書風が、六朝寫經のおもかげがあつて、これを、近來澤山見ることの出來る、新彊、敦煌などで發見せられた古寫經と比べて、推古時代のものであると、斷じ得べきこと。第三、その筆致輕妙を極め、才氣縦横、到底寫經生輩の企て及ぶところでなく、全く偉大なる人格の發現とも見るべきものあること。第四、刀子で紙面を削つて書き直したところ、削り過ぎて破れたところへは、裏から張紙をして書き改めたところ、行と行との間へ書き加へたところ、その他苦心さんたん著作家が當然歩むべき道を、如實に歩まれた足跡が、まざまざと遺されて居ると、及び諸種の文献に徴することなどに依つて、これを聖徳太子御自筆の草稿本であると斷定することについては、何人も異存のないところである。
 殊に、巻首に、「此是大委国上宮王私集非海彼本」と記してあるのは、實に日本精神を、最も明確に宣言せられたものであつて、痛快極まりないものがある。由來、佛教の典籍と言へば、ことごとく支那三韓より傳來したものばかりである中に、この『法華經義疏』は、全く日本人の手に成つたものだといふのであつて、當時政治も外交も、宗教も、道徳もすべて日本的な、自主的なものにしようといふ、太子の面目が、躍如として居るではないか。
 そこで、この『法華經義疏』は日本における最初の著述であつて、日本人の、外國文の著作としても、もとより最初のものであること言ふまでもない。そして、著者の自筆の草稿本、しかも、それが外國文の著作だといふ三拍子そろつたもので、千三百年以前のものゝ現存して居るものは、恐らく世界のどこにもあるまい。かうした意味からも、この『法華經義疏』は實に、國寶以上の「世界寶」だと言ふ所以である。
 その『法華經義疏』も大正十年四月、聖徳太子一千三百年御忌大法會が、法隆寺で營まれた時奈良の博物館で、僅にその一部分の拝観が許されただけで、その後何人も、拝読して居ないのである。それを第十一回大藏會の主催者から、宮内大臣に出願して、今廿二日の午前九時から午後三時まで、上野の博物館の表慶館で、四巻全部を拝観することが出來るやうになつたのは研究者のために、またと得難い好機會を與へられたものといはなければならない。尚、同日午後一時から、東京美術學校講堂において、中川忠順君がこの法華經義疏について講演し同時にそれと比較研究すべき、新彊や敦煌發見の古寫經中すぐれた珍品數十點も陳列し、それ等については、古寫經収集家としての中村不折君が、講演することになつて居る。」

⇒今回はいつもより長めの記事であるため、段落ごとに簡約する。記事の執筆者は高嶋米峰。

 一段落目→高嶋は、日本には「皇室と国体」のほかには世界で誇れる事物が少ないことをとき、その中で「法隆寺の伽藍」と「聖徳太子筆の『法華経義疏』の草稿本」は「世界の宝」と捉えることができると主張する。

 二段落目→法隆寺伽藍の評すべき点は、建てられてから千数百年が経過し、かつ木造建築物でありながらも、未だに新築同様の姿を私たちに示してくれるところにある。これと同様に、奇跡的な存在として考えられるのが、帝室の倉庫に完全な形で残る『法華経義疏』四巻である。

 三段落目→聖徳太子の手により『勝鬘経』『法華経』『維摩経』の注釈書が著されていることは、様々な歴史書を通じて伝えられていることであるが、その草稿がいまだに存在していることは驚愕に値する。また、この草稿の発見が、来る大正十年、「聖徳太子薨後千三百年」を前に、聖徳太子の精神復興を目指す人々の手によって発見されたことは、「偶然」の一言では片付けられない運命を感じる。

 四段落目→『法華経義疏』四巻が聖徳太子の手によるものであると判断した幾つかの要素が述べられている。

 五段落目→『法華経義疏』はその巻首に、「此是大委国上宮王私集非海彼本」(「此れは是れ、大委国の上宮王の私の集にして、海の彼の本にあらず」=「聖徳太子の自著であり、海外の本ではない」)という一文が記されているところから、一般的に「支那三韓」を中心とする他の仏教書と違い、日本的なるものを中心軸とした仏教書として、聖徳太子の意志が溢れる著作であると言える。

 六段落目→高嶋によれば『法華経義疏』は、①現存する日本最初の著述であること、②日本人の手による外国語の著作であること、③著者自筆の草稿本であること、という三点に加え、千数百年の歳月を経ていまだに現存していることから、まさしく「世界宝」だと言うことができるという。

 七段落目→『法華経義疏』に直接触れる機会としては、これまで大正10年四月の「聖徳太子一千三百年御忌大法會」において、奈良の博物館での一部分の拝観が許されたのみで、その後誰も、拝見の機会を得た者はいなかった。それを、今回「第十一回大藏会」において、22日の午前九時から午後三時の期間、上野の博物館の表慶館内で、四巻全部を拝見する機会が設けられたことは、研究者にとって大変喜ばしいことであると言える。またそれに関連して、22日午後一時から東京美術学校で、中川忠順による『法華経義疏』講演と、新彊や敦煌発見の古写経数十点の陳列並びにその解説としての中村不折による講演が行われることになっている。

 記事中の「中川忠順」については「学究:高嶋米峰(20)関連史料[19] - 学究ブログ(思想好きのぬたば)」、「中村不折」については「書道博物館創設者中村不折について | 台東区立書道博物館」を参照。

*『法華経義疏』(『法華義疏』)関連書籍:法華義疏 上 (岩波文庫 青 315-1)

                     法華義疏 下 (岩波文庫 青 315-2)

                     東野治之 聖徳太子――ほんとうの姿を求めて (岩波ジュニア新書)

                     魚住和晃「書」と漢字 (講談社学術文庫)