『現代思想 総特集 仏教を考える』を読む(2)「「討議 いまなぜ近代仏教なのか」を考えるⅠ」

みなさん、こんにちは、本ノ猪です。

今回は、「『現代思想 総特集 仏教を考える』を読む(2)」ということで、

前回の(1)では始まらなかった本文読み込みにチャレンジしたいと思います。

そこで、幾つかの論稿が掲載されている中、何を取り上げるのか、ですが、

自身の学究する分野の一つ「近代仏教」について書かれている

「討議 いまなぜ近代仏教なのか」

を取り上げたいと思います。

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(画像は、『現代思想 総特集 仏教を考える』の目次。今回取り上げる「討議 いまなぜ近代仏教なのか」は、一番始めに示されている。)

 

この論稿は、他の掲載論文と比較したとき、

討議の書き起こしということもあって平易で入門的

であると言えます。

討議内でも言及があるのですが、「近代仏教」という言葉(分野)はあまり有名であるとは言えません。自身も知人や友人に「何を研究しているの?」と言われたときに、「近代仏教だよ」とは言わずに「明治から大正期にかけての宗教を研究している」と言い換えているほどです。

そんなこともあり、今回ブログを書くことを通じて、

多くの人と一緒に

「近代仏教とはなにか?」「近代仏教がいかに深いか」

について考えていければいいと思っています。(専門家の先生がこの文章を読まれると、「なにを言っているんだ、こいつは」と溜息を吐かれることでしょう。)

それでは、ご覧ください。

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「「討議 いまなぜ近代仏教なのか」を考えるⅠ」

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この討議は、碧海寿広・大谷栄一・近藤俊太郎・林淳の四人により行われている。

私はこの四人の先生方から、(濃度の違いはあれ)影響を受けて来た。

直接にお話しを伺って意見を頂いたり、書籍を通じて学びを得たり、

形態は様々ある。

今回は以上の四人の内、大谷栄一先生との接点について、ささやかな経験談を語ってから、本文読み込みに移りたい。

 

私が大谷先生と出会ったのは、確か大学二回生の後半時期であったと思う。

ちょうどその頃、近現代の宗教史に関心を持ち始めていた私は、

京都で該当する分野を研究している人はいないだろうか、と調べ始めた。

そこで発見したのが、佛教大学で教鞭をとられている大谷栄一先生の存在であった。

私は別の大学に所属していたこともあり、若干の不安のもとアポイントをとったが、すぐに快い返事を頂き、歓び勇んで研究室に足を運んだのを覚えている。

私の悪い癖なのだが、どんな人が相手であろうと長話をしてしまう。

それは相手が、教授であろうと変わらない。

案の定、大谷先生に対しても、長話をしてしまった。

しかし大谷先生は、そんな拙い長話に逐一合槌をうち、意見を発した。

例えば、

「近代日本のキリスト教を学ぼうと思うのですが、最近出版された本では何がありますか?」

との質問には、

「赤江達也先生が書かれた『「紙上の教会」と日本近代――無教会キリスト教の歴史社会学』を読むといいですよ」

と言った感じで。(『「紙上の教会」と日本近代』⇒https://amzn.to/2P7Xq9L

 

私は大谷先生の、書籍や他の研究者に関する紹介に導かれて、「学問の道」に進んだ部分がある。他の討議者である、碧海・近藤・林との接点も、大谷先生によって生み出されたといっても、過言ではない。

本当に感謝しています。

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感謝文は、これまでにして、本文の読み込みに移りたいと思います。

この討議は、下記の節によって構成されている。

 

「はじめに――近代仏教研究のいま」

「近代仏教研究における清沢満之

「近代仏教の二つの可能性」

「教育と仏教」

「近代仏教はお寺の外へと出ていった――仏教とメディア」

「鎌倉新仏教をどのように考えるか、あるいは「親鸞問題」」

「「近世仏教堕落論」を考える」

「仏教研究におけるマテリアルとプラクティス」

「仏教研究とジェンダー

「いま仏教をどう語ることができるか」

「これからの近代仏教研究」

 

私はこのラインナップを見た時に、

「うおー、こんな内容が『現代思想』で読めるなんて!」

と感動しましたが、

恐らく大半の人は

「二番目の節にある「清沢満之」って人の名前? なんて読むの?」

という反応を示すだろうと思います。(「清沢満之」は人名で、「きよざわまんし」と読みます)

「「討議 いまなぜ近代仏教なのか」を考える」では、

「ただ内容を下手に要約するぐらいなら実際に読んでもらった方がいいだろう」という前提のもと、一節ごとに注目すべき一文を幾つか引用する形で、雑感を述べていきたいと思います。

 

○「はじめに――近代仏教研究のいま」

「ちなみに「近代仏教」とは「一九世紀以降、世界中にあらわれた仏教の近代的形態」と定義しておきたいと思います。」(P153)

⇒これは大谷栄一の発言。この討議を読み進めていくにあたって一応念頭に置いておくべき定義である。ただ、本文中にも指摘があるように、義務教育中の歴史教育で、この定義に該当する仏教者や仏教の動きに触れることは無いに等しい(高校教育でも、僅かに「廃仏毀釈」「島地黙雷」が紹介されるのみである。個人的な人生目標としては、「日本史的に重要であると考える「近代仏教」の事象を、教科書に掲載する」というのがあるが、いつ実現できることやら……。)

 

「そもそも日本の近代仏教研究の始まりは戦前です。雑誌『解放』の大正一〇年一〇月号に掲載された島地大等の「明治宗教史(基督教及仏教)」が嚆矢とされています。その後、一九二〇年代から四〇年代初頭にかけて明治仏教史の研究が進みました。一九四五年の終戦を経て、近代仏教研究が本格的にスタートします。その礎をきずいた記念碑的著作が一九五九年に刊行された吉田久一の『日本近代仏教史研究』です。吉田、柏原祐泉、池田英俊のいわゆる「ビッグ3」によって戦後の近代仏教研究は牽引されます。一九六〇年代から七〇年代半ばにかけて三人の研究成果が集中的に公刊されます。私はこの時期を「近代仏教研究第一のピーク」と名付けています」(P153-154)

⇒「近代仏教」研究の歴史が短く明瞭に示されている箇所。内容についてとやかく言うことは、ただの蛇足になるため控えるが、二つだけ注目点をあげておく。まず一つは吉田久一の存在である。彼の著作は、2017年度において『近現代仏教の歴史』(ちくま学芸文庫https://amzn.to/2P3mtKR)という形で、手に取りやすい形となって刊行されているため、是非、是非、読んで頂きたいと思う(幕藩体制下の仏教からオウム真理教まで取り上げられており、大変興味深いです)。

次に注目したいのが引用文にある「島地大等」。大等は 宮沢賢治が「法華経」信仰に目覚める上で、大変大きな影響を与えた人物として知られている。賢治は、明治45年(1912)に 願教寺で大等の法話を聞いたり、大等の『漢和対照妙法蓮華経』を読み感動し 座右の書とする、などのエピソードを残す。

 

神道キリスト教なども含めた近代宗教史としてそれぞれの宗教の研究者が手を組んで研究しているかというとなかなかそういう状況ではない。たこつぼ化しているわけですよね。学問状況のたこつぼ化は、もちろんいまに始まったことではないですが、もっとひらいていくべきだと思います」(P157-158)

 ⇒この発言には、「宗教」を学究することの難しさが示されている。研究者は「宗教」とどのように向き合うべきか。仏教やキリスト教神道を学究するとき、そこに信仰心は必要なのか。「信仰心」と研究に求められる「客観性」はバッティングするのか、など様々な問題が浮かび上がってくる。これらの点については、色々な人と議論を重ねて、自分なりの答えを紡ぎ出していきたい。(このブログをご覧になっている方からもご意見を頂ければと思います。)

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以上、「はじめに――近代仏教研究のいま」の雑感を終えて、「『現代思想 総特集 仏教を考える』を読む(2)」を閉じたいと思います。

他の節の雑感については、次回のブログにまわします。

ご覧頂きありがとうございました。