学究:高嶋米峰(18)関連史料[17]

前回同様、朝日新聞掲載分から確認していきたいと思います。

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27.1919年(大正8年) 6月 18日 「演藝風聞録」

一部引用↓

「♦絶對に無い 浪花節懇談會で高島米峰さんが樂屋で博奕などをやるやうぢや困ると言ふと虎丸が「絶對にありやせん」小さな聲で「エツへヽつい此間まではな」」

 ⇒高島米峰と鶴堂虎丸の楽屋話。鶴堂虎丸の茶目っ気さがあらわれているエピソードである。鶴堂虎丸については前回のブログ(学究:高嶋米峰(17)関連史料[16] - 学究ブログ(思想好きのぬたば))を参照。

 

28.1919年(大正8年) 6月 20日 「文化學會講演」

全文引用↓

「二十日午後六時半より神田青年會館に於て第一回講演會を開く由左の如し
 開會の辭(下中芳岳)此世の國に非ず(阿部磯雄)現代の要求せる哲學(石橋湛山)個人意識と社會意識(帆足理一郎)宴會改良論(高島米峰)独逸の盛衰を論じて中央欧羅巴の將來に及ぶ(長瀨鳳輔)」

⇒「下中芳岳」は、平凡社の創業者として知られる「下中弥三郎」のこと。下中は、 一社会運動家・指導者としても知られ、初の教員組合である啓明会の結成や、松岡駒吉との協同によるロシア飢饉同情労働会議の結成、石川三四郎との協同による農民自治会の結成など、精力的な活動をみせた。

 石橋湛山は望月日謙との関連で触れたことがある(学究:高嶋米峰(15)関連史料[14] - 学究ブログ(思想好きのぬたば)を参照)。

 帆足理一郎は、大正期から昭和期に活躍した哲学者、評論家で、日本にデューイら英米の哲学を紹介したことで功績のある人物(ちなみに彼の妻は、同時代の教育・婦人評論家・帆足みゆき。『現代婦人の使命』などの著作で知られる)。

 長瀬鳳輔は、国士舘中学校校長や早稲田大学教授を務めた日本の教育者で、海外の大学(ベルリン大学)で学んだ経験を活かし、外交のエキスパートしても活躍した。

 

下中弥三郎関連書籍:下中彌三郎: アジア主義から世界連邦運動へ

           【大活字本】日本人の伝記・回想録(十一)昭和の出版界を築いた七人 (響林社の大活字本シリーズ)

 石川三四郎関連書籍:石川三四郎と日本アナーキズム

            共生思想の先駆的系譜―石川三四郎とエドワード・カーペンター

 デューイ関連書籍:学校と社会 (岩波文庫)

          J・デューイ (Century Books―人と思想)