学究:徳富蘇峰(17)関連史料[16]

前回同様、朝日新聞掲載分から確認していきたいと思います。

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36.1903年(明治36年) 3月 16日 「●文壇週報 週報子」

一部引用↓

 「◉當今道徳説者は尠い數では無い、然し道徳論は他サイエンスと違つて、過去はドーであつても將來はドーであつても、また其論低からうが高からうが尠くも其際其時其説者兼て實践家でなければ其論何の力も無い、さて此道徳説者兼實践者は當今見渡す所、悲しい哉甚だ鮮い、蘇峯徳富君は近年來政論の一半を割いて道徳説教に費して居らるヽ、但し氏の論は治者の見地からの論である、國家主義的である、帝國主義的である、孔孟的である、偶はまた臨機應變的である、また其時、其論、其行、果して一貫して居るや否や、週報子魯愚にして未だそを看破すべき一隻の炯眼を有たない(以下、省略)」

 ⇒この記事の執筆者は、「道徳説者」(道徳家)は常に「実践家」でもなければ説得力を持たないと主張する。また、その観点から当時(明治30年代)の日本社会を見ると、「道徳説者兼實践者」は少ないとも。

 そのような状況下で、少なくとも「道徳説者兼實践者」として取り上げてもいい人物として徳富蘇峰が見いだせる。執筆者としては、蘇峰の道徳論は「治者の見地」(権力者からみた)に立ったもので、国家主義的・帝国主義的である。また「孔孟的」「臨機応変的」であるとも指摘し、「時代時代において蘇峰が主張してきた「道徳論」に一貫性はあるのか」という点が疑問となっていることが分かる。

 

*「道徳」関連書籍:危ない「道徳教科書」

          日本道徳論 (岩波文庫)

          ジャーナリズムの道徳的ジレンマ

 

37.1903年(明治36年) 5月 4日 「●九州代議士の大軟風」

全文引用↓

「九州代議士は進歩黨と言はず政友會と言はず比較的健全なる分子に富むものとして畏敬され且過去の歴史は正しく革新破壊の魁首たるを許せしが意外にも昨今軟派の中心腐敗の原動たらんとする現象を認めたり平岡浩太郎一派の進歩黨員が早くも政府の手先となれる事は言ふ迄もなく政友會中に於ては熊本、福岡兩縣の代議士間には何れも軟風吹荒み就中熊本縣の如き志士の模範と稱せられたる高田露氏を先鋒とし軟派の中心たるの観あり同氏等の説に依れば政友會は一旦伊藤侯に捧げたるものなれば彼是不服を言ふ資格なし唯だ侯の指導に盲従して到着點を求むべきのみ、侯の親切は肝膽に銘すべし、政府既に我黨と政府とは根本を異にしたる譯にあらず地租の一政略を異にしたるのみ、此度は是非無事經過を圖るべし云々實に驚くべき軟風にして領袖松田正久氏の如きも例の不得要領なる態度を以て兩端を持し其意見を發表し得ざるが大勢此の如くなれば勿論軟派の大將たるべし思ふに清浦佐々徳富等諸氏の關係より軟風は熊本に發生し福岡其他各縣に傳染したるものと知らる本日の九州代議士會合の如きは大軟説を可決し桂伯と伊藤侯に筆分の禮意を表するに至るべしと云ふ(電通)」

 ⇒堅実な政治家が多いことで知られる「九州代議士」は、記事の書かれた明治36年前後から、次第に軟化(腐敗)が始まっていることが指摘されている。その原因としては、「平岡浩太郎一派の進歩黨員」が政府との癒着を深めていることや、熊本県の代議士である高田露(あきら)氏の軟化傾向があげられている。(高田露は西南戦争時、宮崎八郎らとともに協同隊を結成し、西郷軍側に参加した事で知られる。)

 この記事での「軟化」とは、「政府への対抗意識を薄め、むしろ接近を始めている」状況を指している。ならばなぜ、九州代議士はそのような行動を選んだのか。記事によれば、政府との政策的な違いとしては、「地租の一政略」があげられるのみで、敵対関係をあえて作り出すような状況にはないという。

 九州地域(特に熊本と福岡)の代議士の「軟化」傾向の発端として、「清浦佐々徳富等諸氏の關係」が強調されている点は興味深い。つまり徳富蘇峰は、健全であった九州の代議士を「軟化」させた張本人として糾弾されているわけである。これまで、徳富蘇峰に関する史料を幾つか確認してきた限りでも、彼と政府関係者との交流はまことに盛んであり、このような批判が生じても無理はない事実があった。(上記の「佐々」とは、おそらく熊本出身の政治家・佐々友房。)

 

*平岡浩太郎関連書籍:玄洋社・封印された実像

           玄洋社とは何者か

           玄洋社怪人伝――頭山満とその一派

 高田露関連書籍:新訂 政治家人名事典 明治~昭和

 佐々友房関連書籍:復刻版 戦袍日記 全2冊