学究:高嶋米峰(15)関連史料[14]

前回同様、朝日新聞掲載分から確認していきたいと思います。

____________________________

21.1918年(大正7年) 9月 22日 「●本日の集會」

一部引用↓

「▲求道會(前九時)如來廻向之意義(近角常観)」「▲統一閣(後一時)日蓮上人の感激(本多日生)▲日蓮主義講演(後六○)蓬○町長元寺(望月日謙、志水義暲)」「▲美土代町青年會館(後二時)内村鑑三▲本郷教會(前十時)海老名弾正」「南千住隣人會(後七時西光寺)彦根育太郎、西川光二郎、高島米峰、野口復堂」

 ⇒宗教者による集会が同日に多く開催されている様子が確認できる史料。近角常観内村鑑三海老名弾正ら、講演会の常連の名前が確認できるとともに、当時の「日蓮宗」の内部での複雑性も垣間見える。本多日生は、国柱会田中智学と手を組み、「日蓮主義」の思想を広めていったことで有名であるが、彼の講演会と同日に、望月日謙志水義暲による「日蓮主義講演」が開かれている。望月日謙は、身延山久遠寺83世法主立正大学長を務めた人物で、同じく立正大学長となった、第55代内閣総理大臣石橋湛山に、宗教面・教育面で多大な影響を与えている。(そもそも、石橋湛山の父は、身延山久遠寺81世法主日蓮宗24代管長を務めた杉田日布(湛誓)であることも、忘れてはならない点である。)

○志水義暲の略歴(志水義暲文庫 | レファレンス協同データベースより引用) 

東京帝国大学文科大学哲学科(社会学専修)卒業の翌年の大正4(1915)年以降、
日蓮宗大学(現立正大学)、愛知県女子師範学校、愛知県第五中学校で教壇に立ち、
大正10年に文部省専門学務局勤務、大正12年高知高等学校教授(哲学)となった。
大正14年に職を辞してドイツのベルリン大学社会学を研究し、昭和3(1928)年
に帰国。大阪外国語学校生徒主事兼教授を経て、昭和10年に文部省と督学官、昭和
12年には新設の教学局教学官となり、教学局指導部普及課長を務めた。その後も
栃木師範学校長、教学練成所練成官、佐賀高等学校長を歴任し、昭和21年に退官した。
この間、『国体の本義』や『臣民の道』の編纂に携わり、昭和10年代の国民思想の
動向に深く関与した。

 

石橋湛山関連書籍:石橋湛山評論集 (岩波文庫 青 168-1)

          石橋湛山:思想は人間活動の根本・動力なり (ミネルヴァ日本評伝選)

          石橋湛山―リベラリストの真髄 (中公新書)

 

 

22.1918年(大正7年) 12月 10日 「●言語の國際聯盟 悉曇文書の展覧 第五回大藏會」
一部引用↓

「學界佛教界の篤志者に依りて首唱され毎年秋冬の頃を以て東西兩京に開館される大藏會は八日の日曜神田表猿樂町の明治會館に催され高楠、藤岡 黒板の各博士や申川忠順、渡邊ドクトル、高島米峰氏等が頼に會場を斡旋する午前十時前後から各方面の名士帝大や各佛教大學の教授學生等三百餘名参集階下の大廣間二室には(以下、中略)」

⇒「第五回大藏會」の模様が示されている。史料中の「高楠」は高楠順次郎、「藤岡」は藤岡勝二、「黒板」は黒板勝美のことを指していると考えられる。高楠順次郎は、オックスフォード大学でマックス・ミュラーから比較宗教学、サンスクリット文献学を学んだ人物で、後に東京帝国大学教授、東洋大学学長を歴任した。また、『中央公論』の前身となる『反省会雑誌』の刊行を学生時代に始めたことでも知られる。

 藤岡勝二は、東京帝國大學国語研究室の初代主任教授・上田萬年(小説家・円地文子の父)を継いで言語学教授をつとめた言語学者。高楠とは、東京大学青年仏教会の支援者として懇意の仲。

 黒板勝美は、日本古文書学の権威で、東京帝国大学教授を務めた。高楠とは、エスペラント語の普及に力を注いだ同志である。

 上記の三人には、「サンスクリット語」「国語」「古文」といった「言語」に携わり、また「東京帝国大学」に籍を置いていたという共通点がある。

 

高楠順次郎関連書籍:インド思想から仏教へ――仏教の根本思想とその真髄

           東洋文化史における仏教の地位

           近代日本思想としての仏教史学

           戦後歴史学と日本仏教

 藤岡勝二関連書籍:日本における近代「言語学」成立事情 I: 藤岡勝二の言語思想を中心として

 黒板勝美関連書籍:黒板勝美の思い出と私たちの歴史探究