学究:徳富蘇峰(4)関連史料[3]

前回同様、朝日新聞掲載分から確認していきたいと思います。

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7.1894年(明治27年) 1月 12日 「●代議士候補談 熊本縣」

一部引用↓

「第五區は嘉悦氏房氏の選挙區なれど同區は徳富猪一郎の出生地にして氏も亦逐鹿の意あるものと見え已に民友社員なる栗原武三太、阿部光家の両氏を微行せしめ頻に徳富氏の寫眞を配布し運動の相談を爲し居れり今回は嘉悦氏の再選覚束なき模様なるを以て徳富氏は機に乗じて運動を始めし者ならんも大勢は氏の獨占を許さず却て國権黨は大挙して運動するなるべし」

⇒徳富猪一郎の選挙活動の一端が描かれている。引用文中の「嘉悦氏房」は、横井小楠に師事した政治家である。

*代議士関連書籍⇒大政翼賛会に抗した40人―自民党源流の代議士たち (朝日選書)

 

8.1894年(明治27年) 1月 27日 「代議士候補談 熊本縣」

一部引用↓

「第五區は自、民友、國權各派の引張凧の状を顯はし民派は徳富猪一郎、宗像政の兩氏、自派は嘉悦氏房、松岡長寛、深水賴寛、上羽勝衛、澁谷○の五氏あり國權派は未だ定らずと雖も松井将之、藪廣光氏の呼聲稍高し而して各派の勝敗は今日より豫想し得ず結局此區には非常の劇戦を見るに至るべし」(文中の○は認識不可)

⇒7の史料と同様、徳富猪一郎の選挙活動を示す。

 

9.1894年(明治27年) 2月 23日 「●九州自由黨根據の落寞」

全文引用↓

「一時自由黨勢力の九州に彌蔓するに至りたるは全く熊本縣の山田武甫徳富猪一郎氏等の力によりたるものにして熊本の二氏は九州に於ける自由黨の先導者たる如き有様なりしが山田武甫氏逝きてより以来は忽にして徳富氏の派と田中賢道氏等の派との間に隙を生じ其結果分離するに至り爾來田中氏は嘉悦氏房氏を推して僅に勢力を保ち來りしが今度総選挙に際し嘉悦氏と高田露氏との間に又端なく扞挌を生じ田中氏は兩者の間に板挟となり義に於て一方を助け一方を斥くるを能はず世事の意の如くならざるを嘆じて高田氏と共に自由黨を脱し全く政黨に関係を絶ち嘉悦氏も亦候補者たるを辭するに至りて唯僅かに自由黨の候補者を立つるのみ一時九州に於ける自由黨の先導者たりし熊本縣は今は全く前日の勢力を失ふに至れりと云ふ」

⇒九州の自由黨を支えていた勢力が田中武甫の死をきっかけに衰えていく様子を描く。この記事にも嘉悦氏房がでている。