学究:徳富蘇峰(3)関連史料[2]

前回同様、朝日新聞掲載分から確認していきたいと思います。

__________________________

4.1888年(明治21年) 9月 29日 「●基督敎公許の建白」
一部引用↓

新島襄小崎弘道伊勢時雄巖本善治古荘三郎徳富猪一郎湯淺治郎大儀見元一郎高橋五郎井深梶之助田村直臣竹越與三郎人見一太郎の諸氏は昨二十八日連署を以て基督敎公許の建白書を元老院に提出せりといふ」

⇒日本における基督教の権利獲得、日本の神仏との関係。

新島襄関連文献⇒新島襄 (岩波現代文庫)

 小崎弘道関連文献⇒明治文學全集 88 明治宗教文學集(二)

 

5.1891年(明治24年) 8月 12日 三昧「●『吾亡妻』の末に書す」

一部引用↓

「『吾亡妻』國民之友氏に紹介せられて天下公衆に見えん日涙を以て『吾亡妻』を迎へん」


「『吾亡妻』を草して之を國民之友に載せんことを徳富君蘇峰に謀る」

 

「○『吾亡妻』を國民之友に寄せし時徳富蘇峯君より贈られ書幹(中略)夏期附録に於て斯る至情の文を博載し天下に紹介するの榮を得たるを謝す頓首」

⇒宮崎三昧『吾亡妻』が『國民之友』に掲載されるまでの流れ。

 

6.1893年(明治26年) 5月 10日「●自由黨と民友社」

一部引用↓

「「國民之友」及び國民新聞は近頃折々自由黨に向つて忌味ある筆鋒を露せしが去月二十三日發兌の「國民之友」第百八十八號に至りて其酷だしきを極む即ち同號「大勢一斑」と題する一欄内に於て左の如く記載せり(以下、『國民之友』を引用して、自由黨員である星亨の改進黨攻撃を批判)」


「是に於て星氏は渡邊勘十郎氏を以て一應民友社に掛合はせたるに民友社は飽迄該記事を固持し唯だ其責に任ずるのみと言放ちて談判極まらず」


主筆徳富猪一郎氏に向ひ民友社に於て聊かも之を改むる意なくんば是れ即ち民友社は故らに自由黨を中傷せんとを期圖するものなりと言はざるを得ず向後民友社を以て黨の敵と認むべければ此段豫じめ断り置くと宣言し又「自由」の紙上に其始末を公にせり」

⇒『國民之友』が星亨と自由黨を攻撃→星亨側から批判→自由黨と民友社が敵対関係に。

 *星亨関連文献⇒星亨―藩閥政治を揺がした男 (中公新書)

        星亨 (1983年) (朝日評伝選〈27〉)