学究:高嶋米峰(50)関連史料[49]
前回同様、朝日新聞掲載分から確認していきたいと思います。
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65.1925年(大正14年) 11月 30日 「廢娼デーの日比谷へ 娼妓が轉げ込む 女學生も應援して収穫の多かつた今年の活動」
全文引用↓
「廓清會の廢娼デーは廿九日午前十時から活動を始めたが應援のために矯風會、女子青年會、女子學生聯盟及宗教大學生等二百余名も出動して市内目貫の場所において宣傳ビラをまき賛成者には議會に提出する請願書に記名を求めた九段下には高島米峰氏が出張つて盛んに賛成者を勵誘してゐたが本郷三丁目では女軍指揮者の久布白落實女史が目覚しく活動して高島氏の千七百九十四人といふ成績第一位に次いで千七百三十名の賛成者を求め早稻田付近では安部磯雄氏が出動して千二十名を収穫したが四谷は四百二十九名で一等少く澁谷は六百九十一人で上野は七百人であつた、日比谷では午後一時頃に「私はいま逃出して來ました」といつて飛び込んで來た娼妓がゐたがこれは廓清會本部で交渉することして引取らせたが大體今年は昨年より成績よく賛成者の總數一萬二百八十五人であつた」
⇒11月29日に行われた「廃娼デー」運動の詳細を示した記事。この運動の計画段階については、前回の記事(⇒学究:高嶋米峰(49)関連史料[48] - 学究ブログ(思想好きのぬたば))の内容を参照。
運動には「矯風會、女子青年會、女子學生聯盟及宗教大學」などから約200名が集まり、宣伝ビラの配布や請願書への記名のお願いに取り組んだ。
九段下では高嶋米峰、本郷3丁目では久布白落実(くぶしろおちみ)、早稲田では安部磯雄が、それぞれ懸命な呼びかけに動き、多くの賛同者を得た。賛同者数は、高嶋は1794人、久布白は1730人、安部磯雄は1020人等と、細かく記録されている(順位もつけられている)。久布白落実は、大正から昭和期に活躍したキリスト教者で、日本基督教婦人矯風会総幹事/会頭を務めた人物。徳富蘇峰・徳冨蘆花の姪にあたる。
日比谷では「廃娼デー」運動中に、助けを求める娼妓の姿があり、直接的な解決に結びつく効果もあらわれていたことが分かる。
最終的に賛同者の総数は10285人となった。
*久布白落実関連書籍:異文化・交流のはざまで―内田淑子のルーツと生涯
学究:徳富蘇峰(50)関連史料[49]
前回同様、朝日新聞掲載分から確認していきたいと思います。
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75.1909年(明治42年) 5月 7日 「●横井代議士の辭表」
一部引用↓
「東京監獄の藤澤典獄は横井代議士の緣戚なる徳富猪一郎氏に向つて収監中の横井時雄の件に關し六日午前八時三十分同監獄に出頭せられ度旨を通知し徳富氏は之に應じて出頭せし處同典獄は横井時雄より本書の傳撻を願出でたれば之を交附すとて左記辭職願を渡したり(横井氏とは面會せず)
(中略)
○て徳富氏は午前九時半林田衆議院書記會長を官邸に訪ひて該願書を提出せり是れより左き山形縣遊説中なる長谷場議長は五日午後二時半林田書記官長に宛て「横井代議士辭表提出の報を耳にせり果して事實ならば前回臼井哲夫氏の例により萬般處理せられ度余は午前八時半大曲に向ふべし至急實否返電を望む」との意味の電報を送附し來れるも當時は猶公式の辭表提出前なれば其旨同書記官長は返電を發送し置きし由なるが前記の如く既に公然辭表の提出ありしを以て右の訓電に基き即刻肥塚副議長の決裁を得許可の手續を了すると共に直に内務大臣に向つて補缺の申請を爲し同時に書記官長は其旨再び長谷場議長に電報せり」
⇒横井時雄代議士の辞職過程を伝えた記事。
徳富蘇峰は、当時東京監獄に収監されていた横井時雄から「辞職願」を受け取り、これを提出した。この願書をもとに、長谷場議長、林田書記官長、肥塚副議長らが動き、横井時雄の辞職は認められた。
横井時雄が東京監獄に収監されていたのは「日本製糖汚職事件」が原因。衆議院議員辞職、重禁固5か月、追徴金2,500円のダメージを負うことになる。「日本製糖汚職事件」は、「輸入原料砂糖戻税」という期限つき法律の期限延長を求めて、有力衆議院議員への贈賄が行われていた事件である。
記事中にある「臼井哲夫」は、肥前国高来郡島原村(現在の長崎県島原市)生れの政治家で、横井時雄と同じく「日本製糖汚職事件」に関与し、重禁固10か月の有罪判決を受けた。
*「日本製糖汚職事件」関連書籍:小原直回顧録 (中公文庫)
臼井哲夫関連書籍:新訂 政治家人名事典 明治~昭和
学究:高嶋米峰(49)関連史料[48]
前回同様、朝日新聞掲載分から確認していきたいと思います。
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64.1925年(大正14年) 11月「通行人に署名を女生徒も出動して廢娼デーの手はず決る」
全文引用↓
「廿九日廢娼デーを行ふに就き廿八日午後六時から神田美土代町日本キリスト教青年會館で高島米峰氏その他多數の人々が集まつて打合會を行つた、その結果廿九日午前十時から午後四時まで二十名の婦人隊九班を組織して市内人通りの多い九ヶ所に陣取り、宣傳ビラを散布すると同時に賛成者を求めて一々署名を請ふ事になつたが當日は東京女子青年會、目白の女子大、女子學習院等からも多數の女學生が参加すると」
⇒「廃娼デー」計画に関する記事。
29日廃娼デーに向けて、28日午後6時から神田美土代町日本キリスト教青年会館にて打合せ会が行われた。記事中では、会の参加者として高嶋米峰の名が(代表として)あげられている。打合せの結果として、29日の午前10時から午後4時の期間、20名の婦人隊9班(総計180名)が、交通量の多い市内9カ所に立ち、宣伝ビラ配布&署名活動を行うことが決められた。またこの活動には、当日、東京女子青年会、女子学習院等から多数の学生の参加が予定されている。
*「廃娼運動」関連書籍:性を管理する帝国―公娼制度下の「衛生」問題と廃娼運動―
学究:徳富蘇峰(49)関連史料[48]
前回同様、朝日新聞掲載分から確認していきたいと思います。
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74.1909年(明治42年) 5月 6日 「●國際新聞記者協會」
全文引用↓
「一昨日午後帝國ホテルに於て役員選擧會を開き左の如く役員を決定せり
會長 箕浦勝人
副會長 ブリンクリー 徳富猪一郎
名譽通信書記 千葉秀甫 蓑田長正
名譽記錄書記 鹽澤誠作
名譽會計 杉村廣太郎
委員 エロン 石河幹明
フレツシヤ― 本多精一 池邊吉太郎
ケネデー 望月小太郎 村松守義
佐藤顯理 高橋一知 土屋元作
終つて當任委員會を開きケネデー氏を員會長に選擧したり」
⇒帝国ホテルで開かれた「国際新聞記者協会」の役員選挙の結果を伝えた記事。
会長に決定した箕浦勝人は、本ブログ中に度々登場する人物。報知新聞社長、逓信大臣等を務めた。
副会長には、徳富蘇峰と「ブリンクリー」。ブリンクリーはおそらく「フランシス・ブリンクリー」のことであると考えられる。ブリンクリーは、イギリス出身のジャーナリストで、勝海舟との交流により海軍省のお雇い外国人として活躍した。また、浮世絵師である河鍋暁斎に入門したことでも知られている。
千葉秀甫は、新聞記者・(座光寺秀次郎の名で)役者で、オペラ歌手・三浦環との関係が噂された人物。言語能力を生かして、翻訳書の執筆や海外へ日本の文化を紹介する活動を行った。明治期の女性落語家・若柳燕嬢の元夫でもある。
蓑田長正については、正確な情報を得ることはできなかったが、同名でよく知られる人物に寺田寅彦が高知県尋常中学校時代(1893-1896)に交流した英語教師がいるが、年代的にも矛盾はなく、ジャパンタイムス紙で執筆をとるなど記者的な仕事にも従事、没年は大正7年であることから、同一人物である可能性が考えられる。
*フランシス・ブランクリー関連書籍:河鍋暁斎 (岩波文庫)
蓑田長正関連書籍:科学論 (新版 寺田寅彦全集 第I期 第10巻)
学究:高嶋米峰(48)関連史料[47]
前回同様、朝日新聞掲載分から確認していきたいと思います。
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63.1925年(大正14年) 11月 22日 「けふ上野に展観の御物『法華經義疏』 奇跡的に傳つた聖徳太子御自筆の草稿本 高島米峰」
全文引用↓
「萬世一系の皇室と、國體の尊嚴とを外にして、世界に誇るに足るべきものを、余り多く有して居ない日本において、法隆寺のがらんと、聖徳太子御自筆の『華法經義疏』(字ミス)草稿本とは、正に、「世界寶」たるべきものであると確信する。
法隆寺のがらんの中、金堂と五重塔と中門と回廊とが、木造建築にして、千三百余年の歳月を經、しかも、今尚、新築當時の面目をさながらに傳へて居るといふことは、全く世界に類例を求めることの出來ないものであることは、たれでも、一種の奇跡として、驚歎して居るところである。それにも比すべき奇跡的存在は、即ち右の『法華経義疏』四巻が、極めて完全に、帝室の寶庫に、今現に藏せられて居ることである。
聖徳太子が『勝鬘經』と『法華經』と『維摩經』との注釋を、著述し給ひしことは、権威ある多くの記載があるばかりでなく、その三部の注釋は、今現に、世上に流布し、その道の教權とされて居るのであるが、まさかに、その草稿本などが、今まで存在して居やうなことは、全く以て考へられなかつたところである。然るに、大正七年であつたと思ふが、『法隆寺大鏡』の編纂者の出願に依つて、曾て法隆寺から、帝室へ献納し、今は、御物となつて居る幾多の靈寶の撮影を許された時、この『法華經義疏』四巻も、共に撮影を許されたのであるが、これを拝観して、僕等は、實に、不可思議の因緣に感激をさへ覺○たのである。それは、大正十年が、聖徳太子薨後千三百年に相當するといふので、これを記念するために、國民擧つて、太子精神の復興をしなければならないと考へ朝野名士が、いろいろと、そのために、努力して居たその大正七年に、太子御自筆の草稿本が、再び世に出て來たといふことは、決して、偶然なことではないやうな氣がしたのである。
この『法華經義疏』を、太子の御自筆の草稿本であると断定するには種々なる議論がある。しかし、今は、さうした考證や論議を避けて、結論だけを述べるならば、第一、その用紙が、奈良朝以前のものと推定し得べきこと。第二、書風が、六朝寫經のおもかげがあつて、これを、近來澤山見ることの出來る、新彊、敦煌などで發見せられた古寫經と比べて、推古時代のものであると、斷じ得べきこと。第三、その筆致輕妙を極め、才氣縦横、到底寫經生輩の企て及ぶところでなく、全く偉大なる人格の發現とも見るべきものあること。第四、刀子で紙面を削つて書き直したところ、削り過ぎて破れたところへは、裏から張紙をして書き改めたところ、行と行との間へ書き加へたところ、その他苦心さんたん著作家が當然歩むべき道を、如實に歩まれた足跡が、まざまざと遺されて居ると、及び諸種の文献に徴することなどに依つて、これを聖徳太子御自筆の草稿本であると斷定することについては、何人も異存のないところである。
殊に、巻首に、「此是大委国上宮王私集非海彼本」と記してあるのは、實に日本精神を、最も明確に宣言せられたものであつて、痛快極まりないものがある。由來、佛教の典籍と言へば、ことごとく支那、三韓より傳來したものばかりである中に、この『法華經義疏』は、全く日本人の手に成つたものだといふのであつて、當時政治も外交も、宗教も、道徳もすべて日本的な、自主的なものにしようといふ、太子の面目が、躍如として居るではないか。
そこで、この『法華經義疏』は日本における最初の著述であつて、日本人の、外國文の著作としても、もとより最初のものであること言ふまでもない。そして、著者の自筆の草稿本、しかも、それが外國文の著作だといふ三拍子そろつたもので、千三百年以前のものゝ現存して居るものは、恐らく世界のどこにもあるまい。かうした意味からも、この『法華經義疏』は實に、國寶以上の「世界寶」だと言ふ所以である。
その『法華經義疏』も大正十年四月、聖徳太子一千三百年御忌大法會が、法隆寺で營まれた時奈良の博物館で、僅にその一部分の拝観が許されただけで、その後何人も、拝読して居ないのである。それを第十一回大藏會の主催者から、宮内大臣に出願して、今廿二日の午前九時から午後三時まで、上野の博物館の表慶館で、四巻全部を拝観することが出來るやうになつたのは研究者のために、またと得難い好機會を與へられたものといはなければならない。尚、同日午後一時から、東京美術學校講堂において、中川忠順君がこの法華經義疏について講演し同時にそれと比較研究すべき、新彊や敦煌發見の古寫經中すぐれた珍品數十點も陳列し、それ等については、古寫經収集家としての中村不折君が、講演することになつて居る。」
⇒今回はいつもより長めの記事であるため、段落ごとに簡約する。記事の執筆者は高嶋米峰。
一段落目→高嶋は、日本には「皇室と国体」のほかには世界で誇れる事物が少ないことをとき、その中で「法隆寺の伽藍」と「聖徳太子筆の『法華経義疏』の草稿本」は「世界の宝」と捉えることができると主張する。
二段落目→法隆寺伽藍の評すべき点は、建てられてから千数百年が経過し、かつ木造建築物でありながらも、未だに新築同様の姿を私たちに示してくれるところにある。これと同様に、奇跡的な存在として考えられるのが、帝室の倉庫に完全な形で残る『法華経義疏』四巻である。
三段落目→聖徳太子の手により『勝鬘経』『法華経』『維摩経』の注釈書が著されていることは、様々な歴史書を通じて伝えられていることであるが、その草稿がいまだに存在していることは驚愕に値する。また、この草稿の発見が、来る大正十年、「聖徳太子薨後千三百年」を前に、聖徳太子の精神復興を目指す人々の手によって発見されたことは、「偶然」の一言では片付けられない運命を感じる。
四段落目→『法華経義疏』四巻が聖徳太子の手によるものであると判断した幾つかの要素が述べられている。
五段落目→『法華経義疏』はその巻首に、「此是大委国上宮王私集非海彼本」(「此れは是れ、大委国の上宮王の私の集にして、海の彼の本にあらず」=「聖徳太子の自著であり、海外の本ではない」)という一文が記されているところから、一般的に「支那、三韓」を中心とする他の仏教書と違い、日本的なるものを中心軸とした仏教書として、聖徳太子の意志が溢れる著作であると言える。
六段落目→高嶋によれば『法華経義疏』は、①現存する日本最初の著述であること、②日本人の手による外国語の著作であること、③著者自筆の草稿本であること、という三点に加え、千数百年の歳月を経ていまだに現存していることから、まさしく「世界宝」だと言うことができるという。
七段落目→『法華経義疏』に直接触れる機会としては、これまで大正10年四月の「聖徳太子一千三百年御忌大法會」において、奈良の博物館での一部分の拝観が許されたのみで、その後誰も、拝見の機会を得た者はいなかった。それを、今回「第十一回大藏会」において、22日の午前九時から午後三時の期間、上野の博物館の表慶館内で、四巻全部を拝見する機会が設けられたことは、研究者にとって大変喜ばしいことであると言える。またそれに関連して、22日午後一時から東京美術学校で、中川忠順による『法華経義疏』講演と、新彊や敦煌発見の古写経数十点の陳列並びにその解説としての中村不折による講演が行われることになっている。
記事中の「中川忠順」については「学究:高嶋米峰(20)関連史料[19] - 学究ブログ(思想好きのぬたば)」、「中村不折」については「書道博物館創設者中村不折について | 台東区立書道博物館」を参照。
*『法華経義疏』(『法華義疏』)関連書籍:法華義疏 上 (岩波文庫 青 315-1)
東野治之 聖徳太子――ほんとうの姿を求めて (岩波ジュニア新書)
学究:徳富蘇峰(48)関連史料[47]
前回同様、朝日新聞掲載分から確認していきたいと思います。
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73.1909年(明治42年) 2月 8日 「機微談話 ○「横川和尚百人一首」玄耳」
全文引用↓
「天下有用の書、有益の書、賣れる本、儲かる本、面白い本、美しい本を發行する者は多いが、無用、無益、儲からぬ賣れぬ本を發行する者は滅多に無くて、稀に有る、蘇峰徳富君の道樂は今の世に有難い「是書刊行三百部之内第百四十五號明治四十二年二月一日蘇峰學人」と自著の銘打つて賜はつた「横川和尚百人一首」は即ち是れ、寔に以て辱けない、子々孫々永寶用、
七絶各一首、作者一百人、孰も室町時代禪門の名匠である、選者は百人の一に加はれる横川和尚、本書の原版は和尚の手記に係るといふ獲難い珍品、原本の俤を其儘寫眞石版にした道樂出版である、詩は當時の入宋僧に依つて傳へられたハイカラ調、書風は葷酒の氣なき清痩○、格別採る所のない様な本であるが其處が面白い、成功秘訣や實業家列傳や慷慨論や苦心談や對米政策や官業問題や貯金勧誘や經歴小説を讀む様な面倒臭さが無くて可い、試みに一章を誦すれば
山市晴嵐 景菊
一刻千金春夜月、寸陰尺○暮山嵐、市人唯競日中利、豈識奇珍在不貪、
理窟ばつた拙いものであるが、電車往來や借屋住ひをして居る間は此んな詩でも吟ずれば多少の慰安がある」
⇒現代の出版界にも通じるような、大変興味深い記事。
一般的に出版業界は、有益な本、売れる本、儲かる本、面白い本、美しい本を積極的に発行していくが、ごくまれに、そのいずれの要素(特に、有益か、儲かるかという点)とも正反対の書籍を、出版する者がいる。その具体例として示されるのが、徳富蘇峰が総力をあげて出版した「横川和尚百人一首」である。
この書は、室町期禅門の名匠百人の首を集めたもので、選者は名匠百人の一人である横川和尚である。横川和尚とは「横川景三(おうせんけいさん)」のことで、室町中期の臨済宗の僧。相国寺・南禅寺住持、室町幕府の8代将軍・足利義政の側近として外交・文芸顧問を務め、後期五山文学の代表的人物として知られている。
本書の原版は、横川和尚の手記を通じた珍しいもので、原本そのままを写真石版にし、大変贅沢である。集録された詩は、入宋僧により伝えられたハイカラ調のもので、書風は特段の力強さをもたないものとなっている。本書は総じて際立った特徴を有していないように見えるが、そういうところがむしろ評価できると言える。また、成功の秘訣や実業家列伝、慷慨論、苦心談、外交問題、官業問題、貯金勧誘、経歴小説を読む時に生じる面倒臭さが無い点も良い。その例として、一首が引用されている。内容は理窟ばっていて拙いようであるが、電車の往来や借屋住いをしている間、吟ずると多少の慰安になるそうである。
*五山文学関連書籍:五山文学研究 資料と論考
学究:高嶋米峰(47)関連史料[46]
前回同様、朝日新聞掲載分から確認していきたいと思います。
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62.1925年(大正14年) 11月 1日 「けふの放送」
一部引用↓
「♢午前九時四十分修養講座「孔夫子と親鸞聖人」高島米峰 ♢十時三十分講演「産業組合の近況」佐藤寛治 ♢午後零時十分日本音樂史講座(第四回)(一)講話 足利時代の劇樂謡曲(主として拍子組織に就て)工學士 山崎樂堂 (二)實演 海人(玉の段及び後シテ)シテ粟谷益二郎▲地福岡周齋▲大鼓近藤台八▲小鼓樫木爲義▲太鼓中野作朗▲笛寺井政一(以下、中略)」
⇒1925年11月1日のラジオで放送予定の番組一覧を示した記事。
高嶋米峰は、(記事中では)トップバッターで、午前9時40分から修養講座「孔夫子と親鸞聖人」を担当する。放送内容は記事だけでは掴みかねるが、おそらく孔夫子(孔子)と親鸞との比較を行ったのではないかと推察され、朝早くからこの放送を嗜んだ聴講者の層を知りたいものである。
次に、10時30分からは佐藤寛治による「産業組合の近況」。午後0時10分からは「日本音楽史講座」と題して、「足利時代の劇樂謡曲」に関する山崎楽堂による講話と、数名の演奏者による実演が行われた。
山崎楽堂は、大正から昭和前期に活躍した、法政大学教授(現在の法政大学の校章を創案)、能楽研究家であり建築家。能や狂言に関する評論を幾つも発表し、「地拍子」=「能の謡で、一定の音数律の歌詞を八拍子に割り当てる基本の規則」の理論化に貢献した。また、細川家能楽堂などの種々の能楽堂の設計にも取り組んだ。
*「能」関連書籍:能 650年続いた仕掛けとは (新潮新書)
東洋哲学一般関連書籍:史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち (SUN MAGAZINE MOOK)