学究:高嶋米峰(28)関連史料[27]

前回同様、朝日新聞掲載分から確認していきたいと思います。

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39.1921年(大正10年) 1月 12日 「招待は眞平、押掛て來い 花圃女史御自慢のおでんで新年會 押かけ黨の申合せ『手ぶらの事』」

全文引用↓

「代々木初臺に新宅を構へて御座る三宅雪嶺博士『女性日本人』に奥さんの花圃女史と、仲も睦まじく老來益の元氣だが、茲に高島米峰白柳秀湖の博士畏敬黨の人達、この明け春を機會に一夜苦○(草かんむりに名)を啜つて博士のポツリポツリと語るお話に綾からうと、その邊の同志に誘ひを掛ると至極賛成とあり、秀湖君使者役を承つて代々木に出向けは、口も八丁手も八丁の雪嶺翁は
 御親切有難いが、この冬の夜寒に外出はホトホト閉口ぢや、どうぢやろか、若い者なら私の宅迄押かけてござれ、何がなくとも手料理の御馳走、酒くらゐはある、おでんも仲々旨いものである
 蓋し花圃女史のお手のものゝおでん料理は、博士が女性日本人としての第一人者たるを推奨してござる程だから、秀湖君大いに博士夫妻の中の圓滿を感嘆したり、反對に招がるヽ親切を感謝したり、罷り退つて米峰君に話すと米峰君も禿げた頭を撫でゝ感謝し「そんなら吾々若い者で押掛けやう」と一決したが押掛黨は
 米峰、秀湖を初め堺利彦、瀧田樗蔭君、松本道別君といふ變り者もあれば野依秀一、伊大庭柯公、西村渚山君など
 彼是れ二十名ほど、日はこの十六日の夜、押掛け側の申合せに曰く「當日手ぶらのこと」などは變りもののこればかりは抜目がない」

三宅雪嶺と妻の花圃女史が、代々木初臺に新宅を構えたということで、これを一つの機会として、高島米峰白柳秀湖らが三宅雪嶺をどこかに招き話を伺おうと画策する所から記事は始まる。この願いに対して雪嶺は、外出することの億劫さを主張し、「どうぢやろか、若い者なら私の宅迄押かけてござれ、何がなくとも手料理の御馳走、酒くらゐはある、おでんも仲々旨いものである」と語る。ここから、花圃女史の作る御馳走のうまさと夫婦の円満を読み取った白柳は、高嶋米峰にこのことを伝え、結果「そんなら吾々若い者で押掛けやう」ということになった。(高嶋米峰はいつも「禿げた頭」が強調されている(笑)。)

 押掛けメンバーには、高嶋米峰、白柳秀湖堺利彦、瀧田樗蔭、松本道別、野依秀一、大庭柯公、西村渚山など錚々たる(変わり者の)名前が並ぶ。彼らは手ぶらで三宅雪嶺の新居へと向かった。

 「瀧田樗蔭」は、もともとは本願寺系の宗教雑誌であった『中央公論』を、文芸評論や政治評論の充実により刷新した敏腕編集長。吉野作造の「憲政の本義を説いて其有終の美を済すの途を論ず」を自ら口述筆記して、『中央公論』誌上に掲載したのも彼の業績の一つである。『中央公論』は彼の死後、雑誌『改造』の成長などにより、部数を減らしていくことになる。

 「松本道別(まつもとちわき)」は、日比谷焼き討ち事件の主犯として、巣鴨刑務所・小菅監獄に三年間服役した人物で、霊術家。霊術団体・太霊道創始者田中守平や、「江間式心身鍛錬法」の普及者・江間俊一と交流があり、「霊界の三傑」と呼ばれた。「霊界俱楽部」や「霊学道場」を組織したことで知られる。

 「大庭柯公」(おおばかこう)は、ロシアを主戦場に活躍した新聞記者。ロシアで亡くなったことから、「当時ロシアにいた日本人社会主義者の密告によって、ロシアの官憲に殺された」という噂が流れ、問題となった。また、大阪朝日新聞での所謂「白虹事件」により、新聞社を退社したことでも知られる。

 「西村渚山」は、巌谷小波の門人で、博文館の編集者として活躍した。

 

*滝田樗陰関連書籍:滝田樗陰 - 『中央公論』名編集者の生涯 (中公文庫)

          日本の企画者たち ~広告、メディア、コンテンツビジネスの礎を築いた人々~

 松本道別関連書籍:霊学講座

          延年益寿秘経

 白虹事件関連書籍:村山龍平:新聞紙は以て江湖の輿論を載するものなり (ミネルヴァ日本評伝選)

学究:徳富蘇峰(28)関連史料[27]

前回同様、朝日新聞掲載分から確認していきたいと思います。

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53.1907年(明治40年) 4月 6日 「●全國記者大會餘録錄」

一部引用↓

「昨日の記者大會に於る演説中一番出來榮がよくて誰も感服したのは和蘭記者デネンカンブのであつた、始めから終りまで生氣、抑揚、愛嬌が充滿して崩れん許の拍手で中にも「今は日本の時勢が餘り進歩したから仕様もないが是が徳川時代であッたなら………」と述べたあたりは暗に拙者は今日なればこそ單に和蘭の一新聞記者として待遇されるに止まるけれども昔ならば諸君から定めし大持に持たであらうとほのめかしたもので一語單なりと雖も聴衆の鼓膜には異様に響て歴史の追憶がそこへ湧て來り感興無限であつた▲園遊會に移つてから左迄間のないのに新聞仲間の先輩たる箕浦勝人氏が去り大岡育造氏が去り三宅雪嶺氏が去り先刻の演説中「久しく記者として逆境の味を甞て新聞とは古い馴染の間柄、斯様に諸君と會つて見ると懐かしい戀しい」と別れるに忍びない様な意を漏らした學堂居士さへ早くも姿を隠したのに後まで殘つて一同と清興を共にしたのは島田沼南、徳富蘇峰兩君であつた、○かも蘇峰君は飲めない口でありながら大分キコシめし沼南君は木の下蔭あたりに静に身を立たせて群鷄に一鶴といふ格で知人を相手に例の快辯を揮はれた」

⇒「全國記者大會」の小エピソードを纏めた記事。一つ目のエピソードは、オランダ出身の記者デネンカンブの話し。彼が語った「今は日本の時勢が餘り進歩したから仕様もないが是が徳川時代であッたなら………」との言葉に、記事の筆者は感動を覚えている。これは、鎖国政策の中で、西欧諸国では唯一、長崎貿易を通じて外交貿易関係を維持していたオランダの歴史的背景が原因であると思われる。

 二つ目のエピソードでは、全国記者大会終了後の園遊会(戸外で催す宴会)でのもの。箕浦勝人、大岡育造、三宅雪嶺、学堂居士(尾崎行雄)が早々と会場を後にする中、最後まで園遊会に残り語り続けたのが島田沼南と徳富蘇峰であったというエピソードである。島田と蘇峰の性格が垣間見える記事。

 

*江戸期のオランダ貿易:それでも江戸は鎖国だったのか―オランダ宿 日本橋長崎屋 (歴史文化ライブラリー)

            オランダ風説書―「鎖国」日本に語られた「世界」 (中公新書)

            出島遊女と阿蘭陀通詞―日蘭交流の陰の立役者

 園遊会関連書籍:幸福/園遊会―他17篇 (岩波文庫 赤 256-1)

学究:高嶋米峰(27)関連史料[26]

前回同様、朝日新聞掲載分から確認していきたいと思います。

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38.1920年(大正9年) 12月 7日 「讀者の眼 新聞に對する各方面の註文」

一部引用↓

「一、愛讀記事の種類 二、婦人子供學生等の喜ぶ記事 三、希望又は註文」

「○ 高島米峰 一、小生は宗教に關する記事を最も愛讀致します。 二、家族中には婦人あり少年ありでその喜ぶところの記事一様には申上かねます。三、宗教界の記事を出來るだけ多くして頂きたい思ひます。」

⇒この記事は、題名にもあるように、読者(正確に言えば有識者)に新聞の内容や方針に関する意見を訊ねたものとなっている。質問項目としては、1.愛読している記事の種類は何か、2.婦人や子供、学生が喜ぶ記事は何か、3.希望または註文はないか、の三つが示されている。高嶋は各質問に対して、1.宗教に関する記事、2.婦人・子供・学生で興味はばらばらで一概に言えない、3.宗教界に関する記事を増やしてほしい、と答えている。(1と3からは宗教者の特徴、2からは知識人らしい当たり障りのなさが伺える。)

 上記の質問には、若槻礼次郎や阿部次郎なども回答していた。

 

若槻礼次郎関連書籍:池上彰と学ぶ日本の総理 第23号 若槻礼次郎/田中義一/浜口雄幸 (小学館ウィークリーブック)

           外交五十年 (中公文庫)

 安部次郎関連書籍:教養派知識人の運命 (筑摩選書)

学究:徳富蘇峰(27)関連史料[26]

前回同様、朝日新聞掲載分から確認していきたいと思います。

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51.1906年(明治39年) 10月 13日 「●叙任辭令」

一部引用↓

「依頼國語調査委員會委員被免 徳富猪一郎」

⇒内容は史料の通り。徳富と「國語」の関係性については考察していきたい。

 

52.1906年(明治39年) 11月 22日 「●基督教金曜講演會」

全文引用↓

 「神田美土代町なる東京基督教青年會は今度金曜講演會と云ふを設け學生生活問題を主題とし左の順序に依り明廿三日を初會とし毎金曜日を以て六回に渉り講演を開く由聴講券は一回金五錢六回分切符金二十錢なり
第一回 十一月二十三日(金曜)午後七時
勉學の慣習と時間の活用 東京毎日新聞記者 石川安次郎
第二回 十一月三十日(金曜)午後七時
潔行          醫學博士 男爵 高木兼覧
第三回 十二月七日(金曜)午後七時
意志の力と自立     人民新聞主筆 豐崎善之助
第四回 十二月十四日(金曜)午後七時
課程外の讀書      國民新聞主筆 徳富猪一郎
第五回 十二月二十一日(金曜)午後七時
娯楽と運動       早稲田大學講師 安部磯雄
第六回 十二月二十八日(金曜)午後七時
節制          日本禁酒同盟會會長 安藤太郎」

 ⇒「東京基督教青年會」が「學生生活問題」をテーマに「金曜講演會」を開催したという記事。計六回講演が行われている。

 石川安次郎は、『庚寅新誌』、『信濃日報』、『中央新聞』、『東京毎日新聞』、『報知新聞』、『東京朝日新聞』、『萬朝報』など、様々な雑誌・新聞で活躍したジャーナリスト。「政界ゴシップの天才」と呼ばれる。『報知新聞』時代に、記者として義和団の乱に従軍し、中支那の外交機密を紙面上で発表して世間に衝撃を与えた。また、ポーツマス会議の取材にも取り組む。幸徳秋水田中正造との交流もある。彼が「勉學の慣習と時間の活用」という講演を行ったという事実は、大変興味深い。

 高木兼覧については「高木 兼寛|宮崎県郷土先覚者」を参照。

 「豐崎善之助」は、1898(明治31)年10月結成の「社会主義研究会」の結成メンバーの一人。その他のメンバーには、村井知至・河上清・幸徳秋水片山潜などがいる。

 

 

 

 

学究:高嶋米峰(26)関連史料[25]

前回同様、朝日新聞掲載分から確認していきたいと思います。

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37.1920年(大正9年) 10月 24日 「鉄箒 『不動』」

全文引用↓

「♢新海竹太郎君作の「不動」が第二回官展の彫刻室に異彩を放つて居る。
 ♢日本の佛像は、繪畫でも彫刻でも、密教の儀軌の約束に縛られ、阿闍梨の口訣に無上の権威を認めさせられるやうになつてから、全く不自由な形式的のものなつてしまつて、従つて、作者の個性の横溢した、自由な、活き活きした作といふものが、出來なくなつてしまつた。
 ♢成程、儀軌も口訣も、尊貴なものではあらう。しかし、その儀軌の教ふるところは、必ずしも一定して居るといふのではなくて、一尊について、數様の形像が説かれて居るのも少くない。勿論、それについて、一々密教式の教理的根據が與へてはあるが、一面二臂でも、三面六臂でも差支ないのがあり、坐立孰れでも、擇ぶに任せて居るのもあるのだから、畫家や彫刻家は、必ずしも、儀軌の約束や、阿闍梨の口訣に束縛せられるには及ぶまい。
 ♢今、新海君の『不動』を観るに、作者の所信を、大膽に發表したものであつて、従來、儀軌と口訣とに責めつけられて、身動きのならないやうになつてしまつた造像界に、革命的暗示を與ふるものと言はうか、諷刺的嘲罵を浴びせたものと言はうか、いづれにもせよ、痛快を極めたものであつて、作者の目的は、期待以上に、達せられて居るやうに思はれる。
 ♢自由の境地に逍遥して、作者の個性が遺憾なく表現せられたものならば、それは藝術として尊貴なものであらう。従つて、愛玩鑑賞を價するではあらうが、しかし、教理を承認せず、本願を考慮しない佛像は、到底、禮拝供養の對象とするに足らないのである。然らば、新海君の『不動』は拝めるかと言ふに、それは勿論、拝めない、何となれば、一切の理屈は抜きにするとしても、不動尊それ自身が、斜に後向に突つ立つて居て、大きなお尻を、無遠慮に、こちらに向けて居るのだもの。(高島米峰寄)」

 ⇒一つ目の♢では、第二回官展の彫刻室において異彩を放つ新海竹太郎作の「不動」の紹介がされている。

 二つ目の♢では、日本の仏像(史料中では「仏の姿」といった意味)は、表現の方法が絵画であろうと彫刻であっても、密教における儀式や祭祀の規定、及び天台・真言の高僧の言葉に縛られていて、自由に描出することができないものになっている。そこには、絵画や彫刻の作者の個性が現われていない、と高嶋は語る。

 三つ目の♢では、「密教における儀式や祭祀の規定、及び天台・真言の高僧の言葉」に尊敬の態度を示した上で、それらにも様々なバリエーションがあることをあげ、一つの規定や言葉に縛られて仏像を表現する必要はないと主張している。

 四つ目の♢では、以上のように不自由になっていた仏像表現(造像界)の状況に風穴をあけた人物として、「不動」の作者・新海竹太郎が評価されている。

 五つ目の♢では、新海が自身の個性を遺憾なく発揮して制作した「不動」に対して、「教理を承認せず、本願を考慮しない佛像」との評価のもと信仰の(拝む)対象とはならないと主張する。「不動尊それ自身が、斜に後向に突つ立つて居て、大きなお尻を、無遠慮に、こちらに向けて居るのだもの。」には、高嶋の「不動」に対する複雑な心情が表れていると言える。

 「仏像」を、「芸術作品」として生み出すか、それとも「信仰対象」として生み出すか。そこが大きな焦点となっている。

 

*仏像関連書籍:仏像と日本人-宗教と美の近現代 (中公新書)

        マンガでわかる仏像: 仏像の世界がますます好きになる!

        仏像[完全版]―心とかたち (NHKブックス No.1250)

『現代思想 総特集 仏教を考える』を読む(2)「「討議 いまなぜ近代仏教なのか」を考えるⅠ」

みなさん、こんにちは、本ノ猪です。

今回は、「『現代思想 総特集 仏教を考える』を読む(2)」ということで、

前回の(1)では始まらなかった本文読み込みにチャレンジしたいと思います。

そこで、幾つかの論稿が掲載されている中、何を取り上げるのか、ですが、

自身の学究する分野の一つ「近代仏教」について書かれている

「討議 いまなぜ近代仏教なのか」

を取り上げたいと思います。

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(画像は、『現代思想 総特集 仏教を考える』の目次。今回取り上げる「討議 いまなぜ近代仏教なのか」は、一番始めに示されている。)

 

この論稿は、他の掲載論文と比較したとき、

討議の書き起こしということもあって平易で入門的

であると言えます。

討議内でも言及があるのですが、「近代仏教」という言葉(分野)はあまり有名であるとは言えません。自身も知人や友人に「何を研究しているの?」と言われたときに、「近代仏教だよ」とは言わずに「明治から大正期にかけての宗教を研究している」と言い換えているほどです。

そんなこともあり、今回ブログを書くことを通じて、

多くの人と一緒に

「近代仏教とはなにか?」「近代仏教がいかに深いか」

について考えていければいいと思っています。(専門家の先生がこの文章を読まれると、「なにを言っているんだ、こいつは」と溜息を吐かれることでしょう。)

それでは、ご覧ください。

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「「討議 いまなぜ近代仏教なのか」を考えるⅠ」

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この討議は、碧海寿広・大谷栄一・近藤俊太郎・林淳の四人により行われている。

私はこの四人の先生方から、(濃度の違いはあれ)影響を受けて来た。

直接にお話しを伺って意見を頂いたり、書籍を通じて学びを得たり、

形態は様々ある。

今回は以上の四人の内、大谷栄一先生との接点について、ささやかな経験談を語ってから、本文読み込みに移りたい。

 

私が大谷先生と出会ったのは、確か大学二回生の後半時期であったと思う。

ちょうどその頃、近現代の宗教史に関心を持ち始めていた私は、

京都で該当する分野を研究している人はいないだろうか、と調べ始めた。

そこで発見したのが、佛教大学で教鞭をとられている大谷栄一先生の存在であった。

私は別の大学に所属していたこともあり、若干の不安のもとアポイントをとったが、すぐに快い返事を頂き、歓び勇んで研究室に足を運んだのを覚えている。

私の悪い癖なのだが、どんな人が相手であろうと長話をしてしまう。

それは相手が、教授であろうと変わらない。

案の定、大谷先生に対しても、長話をしてしまった。

しかし大谷先生は、そんな拙い長話に逐一合槌をうち、意見を発した。

例えば、

「近代日本のキリスト教を学ぼうと思うのですが、最近出版された本では何がありますか?」

との質問には、

「赤江達也先生が書かれた『「紙上の教会」と日本近代――無教会キリスト教の歴史社会学』を読むといいですよ」

と言った感じで。(『「紙上の教会」と日本近代』⇒https://amzn.to/2P7Xq9L

 

私は大谷先生の、書籍や他の研究者に関する紹介に導かれて、「学問の道」に進んだ部分がある。他の討議者である、碧海・近藤・林との接点も、大谷先生によって生み出されたといっても、過言ではない。

本当に感謝しています。

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感謝文は、これまでにして、本文の読み込みに移りたいと思います。

この討議は、下記の節によって構成されている。

 

「はじめに――近代仏教研究のいま」

「近代仏教研究における清沢満之

「近代仏教の二つの可能性」

「教育と仏教」

「近代仏教はお寺の外へと出ていった――仏教とメディア」

「鎌倉新仏教をどのように考えるか、あるいは「親鸞問題」」

「「近世仏教堕落論」を考える」

「仏教研究におけるマテリアルとプラクティス」

「仏教研究とジェンダー

「いま仏教をどう語ることができるか」

「これからの近代仏教研究」

 

私はこのラインナップを見た時に、

「うおー、こんな内容が『現代思想』で読めるなんて!」

と感動しましたが、

恐らく大半の人は

「二番目の節にある「清沢満之」って人の名前? なんて読むの?」

という反応を示すだろうと思います。(「清沢満之」は人名で、「きよざわまんし」と読みます)

「「討議 いまなぜ近代仏教なのか」を考える」では、

「ただ内容を下手に要約するぐらいなら実際に読んでもらった方がいいだろう」という前提のもと、一節ごとに注目すべき一文を幾つか引用する形で、雑感を述べていきたいと思います。

 

○「はじめに――近代仏教研究のいま」

「ちなみに「近代仏教」とは「一九世紀以降、世界中にあらわれた仏教の近代的形態」と定義しておきたいと思います。」(P153)

⇒これは大谷栄一の発言。この討議を読み進めていくにあたって一応念頭に置いておくべき定義である。ただ、本文中にも指摘があるように、義務教育中の歴史教育で、この定義に該当する仏教者や仏教の動きに触れることは無いに等しい(高校教育でも、僅かに「廃仏毀釈」「島地黙雷」が紹介されるのみである。個人的な人生目標としては、「日本史的に重要であると考える「近代仏教」の事象を、教科書に掲載する」というのがあるが、いつ実現できることやら……。)

 

「そもそも日本の近代仏教研究の始まりは戦前です。雑誌『解放』の大正一〇年一〇月号に掲載された島地大等の「明治宗教史(基督教及仏教)」が嚆矢とされています。その後、一九二〇年代から四〇年代初頭にかけて明治仏教史の研究が進みました。一九四五年の終戦を経て、近代仏教研究が本格的にスタートします。その礎をきずいた記念碑的著作が一九五九年に刊行された吉田久一の『日本近代仏教史研究』です。吉田、柏原祐泉、池田英俊のいわゆる「ビッグ3」によって戦後の近代仏教研究は牽引されます。一九六〇年代から七〇年代半ばにかけて三人の研究成果が集中的に公刊されます。私はこの時期を「近代仏教研究第一のピーク」と名付けています」(P153-154)

⇒「近代仏教」研究の歴史が短く明瞭に示されている箇所。内容についてとやかく言うことは、ただの蛇足になるため控えるが、二つだけ注目点をあげておく。まず一つは吉田久一の存在である。彼の著作は、2017年度において『近現代仏教の歴史』(ちくま学芸文庫https://amzn.to/2P3mtKR)という形で、手に取りやすい形となって刊行されているため、是非、是非、読んで頂きたいと思う(幕藩体制下の仏教からオウム真理教まで取り上げられており、大変興味深いです)。

次に注目したいのが引用文にある「島地大等」。大等は 宮沢賢治が「法華経」信仰に目覚める上で、大変大きな影響を与えた人物として知られている。賢治は、明治45年(1912)に 願教寺で大等の法話を聞いたり、大等の『漢和対照妙法蓮華経』を読み感動し 座右の書とする、などのエピソードを残す。

 

神道キリスト教なども含めた近代宗教史としてそれぞれの宗教の研究者が手を組んで研究しているかというとなかなかそういう状況ではない。たこつぼ化しているわけですよね。学問状況のたこつぼ化は、もちろんいまに始まったことではないですが、もっとひらいていくべきだと思います」(P157-158)

 ⇒この発言には、「宗教」を学究することの難しさが示されている。研究者は「宗教」とどのように向き合うべきか。仏教やキリスト教神道を学究するとき、そこに信仰心は必要なのか。「信仰心」と研究に求められる「客観性」はバッティングするのか、など様々な問題が浮かび上がってくる。これらの点については、色々な人と議論を重ねて、自分なりの答えを紡ぎ出していきたい。(このブログをご覧になっている方からもご意見を頂ければと思います。)

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以上、「はじめに――近代仏教研究のいま」の雑感を終えて、「『現代思想 総特集 仏教を考える』を読む(2)」を閉じたいと思います。

他の節の雑感については、次回のブログにまわします。

ご覧頂きありがとうございました。

 

 

 

 

 

学究:徳富蘇峰(26)関連史料[25]

前回同様、朝日新聞掲載分から確認していきたいと思います。

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49.1905年(明治38年)5月1日 「●田口博士追悼會」

全文引用↓

 「經濟學協會は一昨日午後六時より富士見軒にて會員田口卯吉氏の追悼會を兼ね例會を開き出席者は田口氏の遺子文太氏を始め六十餘名にして島田三郎氏の發議に依り幹事田口卯吉氏の補缼として阪谷芳郎氏を推選士夫れより食卓に着きたるが食堂には故田口氏の寫眞を掲げて追悼の意を表し席上阪谷芳郎、島田三郎、徳富猪一郎、添田壽一、箕浦勝人、丸山名政、伊藤祐穀氏等の追悼演説あり十時過散會せり」

⇒経済学協会が田口卯吉の追悼会を兼ねた例会を開催したという記事(田口卯吉の息子である文太も参加している)。田口は経済学協会の幹事であったこともあり、その穴埋めとして阪谷芳郎が選出されている。「食堂には故田口氏の寫眞を掲げて追悼の意を表し」の描写には、考えさせられるものがある。

 添田壽一は筑前国遠賀郡の生まれで、上記の阪谷芳郎とともに東大を卒業し、大蔵省に入省。その後、ケンブリッジ大学ハイデルベルク大学での学びを経て、隈板内閣で大蔵次官、また東京帝国大学や東京専門学校などで経済学の講義を行った。大蔵官僚でありながら、大学や雑誌などで経済学の一般普及に尽力したことから「官庁エコノミスト」の先駆けとなった。

 丸山名政は内務官僚、新聞記者、政治家を務めた人物。
 本文中の「伊藤祐穀」は正しくは「伊東祐穀」。肥前(佐賀県)の生まれで、明治から大正期の統計学者。ハンガリーの万国統計会議に日本代表として出席し、帰国後「世界年鑑」を出版に尽力した。大正3年には佐賀図書館長も務めている。

 

阪谷芳郎関連書籍:阪谷芳郎関係書簡集

 

50.1906年(明治39年) 6月 4日 「本社滿洲特電 ●山中中將」

全文引用↓

「二日安東縣特派員發
 山中第十三師團長昨一日當地着二日鐡嶺に歸任せり徳富猪一郎氏も同行せり」

⇒この記事にある「山中第十三師團長」は、正しくは「山中第十六師團長」であると考えられる。第十六師団長には、1905年(明治38年)7月18日 ~1913年(大正2年)1月15日の期間役職についた山中信義がいる(記事執筆年と一致)。

 

*師団関連書籍:帝国陸軍師団変遷史