学究:高嶋米峰(17)関連史料[16]

前回同様、朝日新聞掲載分から確認していきたいと思います。

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26.1919年(大正8年) 6月 16日 「俗耳に入り易い浪花節で 社會改善に盡すといふ計畫 昨日赤坂の三會堂に大頭株の懇談會 ▽先づ自分の方を種々改良」

全文引用↓

浪花節通の古賀廉造氏を初め其他同好家數氏の發企にて十五日午後一時半より赤坂三會堂に全國浪花節懇談會が催された、斯道に熱心家田中薫骨氏の開會の辭あり次に古賀氏起つて○めて平易な句調で「藝術にも眼と耳を樂しませるものがあるまた耳だけのものもあつて長唄とか常盤○とかいふものもあるがこれは同じ唄ふもの語るものでも浪花節のやうに速かに俗耳に入り惡い自分は最も此の俗耳に入り易い浪花節を以て社會の改善を計りたいと思ふ」といふ

 趣意で約三十分間の演説があり續いて來賓高島米峰氏が浪花節に對する自分の意見と共に斯業者に對して反省を求むる處あり終つて懇談會に移つた、懇談の事項は「高座に於ては各自社會教育家たるの観念を持つやうにしたきを、高座に出る時は成るべく服装等に注意をしたきこと、責任を重んずること、師弟の關係を今一層親密にすること、各組合規約を重んずること」其他數項であつた、出席者は辰雄、鶴堂虎丸、愛造、八道、大教、奈良丸、勝太郎、峯吉、孤舟、清吉等七十餘名、来賓には頭山滿、本多林學博士、松浦專門學務局長、權田文學士、宮崎滔天他數氏で同五時過ぎに散會した、従來統一を缺いてゐた浪花節○以上名士の後援によつて今後定めし向上發展することであらう」

 ⇒「全國浪花節懇談會」の様子について報告している記事。「浪速節」とは、三味線を伴奏とし,歌う部分と語りの部分の二部を1人で演じる、関西地方発祥の語り物。

本会ではまず、司法界で幾つも役職に就いた古賀廉造の開会の辞によって始まる。古賀は「浪花節」の特徴として、数ある藝術の中でも「俗耳に入り易い」ことをあげている。つまり、一般の人でも聴きやすい/馴染みやすい藝術であるということである。古賀はその点を利用して、「浪花節で社会の改善を!」と主張している。

 高嶋米峰は本史料において、一来賓として名前があがっており、浪花節に対する意見を求められている。なぜ高嶋米峰が、この「全國浪花節懇談會」に招かれたのか、という点については、幾つかの理由が考えられるが、一番は廃娼運動や禁酒運動など、様々な社会改善の取り組みに参加している彼の経歴を踏まえてのことであろう。

 「浪曲師」は今後何を意識し、何を試みればいいのか。そのことについても、話し合いがなされている。

 本会の出席者・来賓の名前を確認する。「鶴堂虎丸」は、2代目・鼈甲斎虎丸(べっこうさい とらまる)のこと。浪曲名跡として知られる。「頭山滿」については、学究:徳富蘇峰(6)関連史料[5] - 学究ブログ(思想好きのぬたば)を参照。「本多林學博士」とは、日本の「公園の父」と呼ばれる本多静六のこと。宮崎滔天は、肥後国玉名郡荒尾村(現在の熊本県荒尾市)に生れた人物で、孫文らによる革命(辛亥革命)を支援するため、中国と日本、その他のアジア諸国を股にかけて活躍した革命家である。その大活劇は、彼の著作『三十三年の夢』 (岩波文庫)に克明に描かれている。ただし本書は、この史料の中心テーマ「浪花節」との関連で言えば、滔天が革命的活動から一度手を引いた後、「桃中軒 牛右衛門」という名で浪曲師として活動したことについて、その詳細を示していない。滔天は1922年に世を去るが、1919年時に一浪曲師として「浪花節で社会の改善を!」を謳う懇談会に出席していたという事実は、今後も考察するべき点であると言える。

 

浪花節関連書籍:浪花節 流動する語り芸―演者と聴衆の近代

 古賀廉造関連書籍:私の祖父 古賀廉造の生涯―葬られた大正の重鎮の素顔

 宮崎滔天関連書籍:謀叛の児: 宮崎滔天の「世界革命」

          宮崎滔天: 万国共和の極楽をこの世に (ミネルヴァ日本評伝選)

          宮崎滔天―三十三年の夢 (人間の記録 (62))

学究:徳富蘇峰(17)関連史料[16]

前回同様、朝日新聞掲載分から確認していきたいと思います。

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36.1903年(明治36年) 3月 16日 「●文壇週報 週報子」

一部引用↓

 「◉當今道徳説者は尠い數では無い、然し道徳論は他サイエンスと違つて、過去はドーであつても將來はドーであつても、また其論低からうが高からうが尠くも其際其時其説者兼て實践家でなければ其論何の力も無い、さて此道徳説者兼實践者は當今見渡す所、悲しい哉甚だ鮮い、蘇峯徳富君は近年來政論の一半を割いて道徳説教に費して居らるヽ、但し氏の論は治者の見地からの論である、國家主義的である、帝國主義的である、孔孟的である、偶はまた臨機應變的である、また其時、其論、其行、果して一貫して居るや否や、週報子魯愚にして未だそを看破すべき一隻の炯眼を有たない(以下、省略)」

 ⇒この記事の執筆者は、「道徳説者」(道徳家)は常に「実践家」でもなければ説得力を持たないと主張する。また、その観点から当時(明治30年代)の日本社会を見ると、「道徳説者兼實践者」は少ないとも。

 そのような状況下で、少なくとも「道徳説者兼實践者」として取り上げてもいい人物として徳富蘇峰が見いだせる。執筆者としては、蘇峰の道徳論は「治者の見地」(権力者からみた)に立ったもので、国家主義的・帝国主義的である。また「孔孟的」「臨機応変的」であるとも指摘し、「時代時代において蘇峰が主張してきた「道徳論」に一貫性はあるのか」という点が疑問となっていることが分かる。

 

*「道徳」関連書籍:危ない「道徳教科書」

          日本道徳論 (岩波文庫)

          ジャーナリズムの道徳的ジレンマ

 

37.1903年(明治36年) 5月 4日 「●九州代議士の大軟風」

全文引用↓

「九州代議士は進歩黨と言はず政友會と言はず比較的健全なる分子に富むものとして畏敬され且過去の歴史は正しく革新破壊の魁首たるを許せしが意外にも昨今軟派の中心腐敗の原動たらんとする現象を認めたり平岡浩太郎一派の進歩黨員が早くも政府の手先となれる事は言ふ迄もなく政友會中に於ては熊本、福岡兩縣の代議士間には何れも軟風吹荒み就中熊本縣の如き志士の模範と稱せられたる高田露氏を先鋒とし軟派の中心たるの観あり同氏等の説に依れば政友會は一旦伊藤侯に捧げたるものなれば彼是不服を言ふ資格なし唯だ侯の指導に盲従して到着點を求むべきのみ、侯の親切は肝膽に銘すべし、政府既に我黨と政府とは根本を異にしたる譯にあらず地租の一政略を異にしたるのみ、此度は是非無事經過を圖るべし云々實に驚くべき軟風にして領袖松田正久氏の如きも例の不得要領なる態度を以て兩端を持し其意見を發表し得ざるが大勢此の如くなれば勿論軟派の大將たるべし思ふに清浦佐々徳富等諸氏の關係より軟風は熊本に發生し福岡其他各縣に傳染したるものと知らる本日の九州代議士會合の如きは大軟説を可決し桂伯と伊藤侯に筆分の禮意を表するに至るべしと云ふ(電通)」

 ⇒堅実な政治家が多いことで知られる「九州代議士」は、記事の書かれた明治36年前後から、次第に軟化(腐敗)が始まっていることが指摘されている。その原因としては、「平岡浩太郎一派の進歩黨員」が政府との癒着を深めていることや、熊本県の代議士である高田露(あきら)氏の軟化傾向があげられている。(高田露は西南戦争時、宮崎八郎らとともに協同隊を結成し、西郷軍側に参加した事で知られる。)

 この記事での「軟化」とは、「政府への対抗意識を薄め、むしろ接近を始めている」状況を指している。ならばなぜ、九州代議士はそのような行動を選んだのか。記事によれば、政府との政策的な違いとしては、「地租の一政略」があげられるのみで、敵対関係をあえて作り出すような状況にはないという。

 九州地域(特に熊本と福岡)の代議士の「軟化」傾向の発端として、「清浦佐々徳富等諸氏の關係」が強調されている点は興味深い。つまり徳富蘇峰は、健全であった九州の代議士を「軟化」させた張本人として糾弾されているわけである。これまで、徳富蘇峰に関する史料を幾つか確認してきた限りでも、彼と政府関係者との交流はまことに盛んであり、このような批判が生じても無理はない事実があった。(上記の「佐々」とは、おそらく熊本出身の政治家・佐々友房。)

 

*平岡浩太郎関連書籍:玄洋社・封印された実像

           玄洋社とは何者か

           玄洋社怪人伝――頭山満とその一派

 高田露関連書籍:新訂 政治家人名事典 明治~昭和

 佐々友房関連書籍:復刻版 戦袍日記 全2冊

学究:高嶋米峰(16)関連史料[15]

前回同様、朝日新聞掲載分から確認していきたいと思います。

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23.1919年(大正8年) 1月 11日 「本日の集會」
全文引用↓

「神田表猿樂町明治會館午後六時半(心の貧しき者は福なり)北村教嚴(思想の免疫性)高島米峰▲第二求道會九段佛教俱樂部午後二時(日出でゝ夜明く)近角常観▲婦人修養俱楽○婦人衛生會合同初例會一橋女子職業學校午後一時(歐洲戦亂に對する所感)内田定○(未定富士川游(講議)風谷▲日佛協會講演午後二時華族會館)

⇒毎度お馴染みの「本日の集會」。「第二求道會九段佛教俱樂部」とは、東京本郷の求道会館を第一の会場としての表現だろうか。講演内容を見ると、「歐洲戦亂に對する所感」とあるように、戦争(今回の場合は1914年7月28日から1918年11月11日間の第一次世界大戦)についての演説も行われていたことが分かる。

 

第一次世界大戦関連書籍:日本人のための第一次世界大戦史 世界はなぜ戦争に突入したのか

             第一次世界大戦史 - 諷刺画とともに見る指導者たち (中公新書)

             第一次世界大戦 (ちくま新書)

 

24.1919年(大正8年) 2月 15日 「文藝美術」

一部引用↓

「△風俗問題演説會 二月十七日午後五時半より神田表猿樂町明治會館に開き生活問題と風俗問題(加藤咄堂)自殺する女(高島米峰)デモクラシーと風俗(宮田脩)眞の自由を尊重せよ(三輪田元道)の談笑ありと」「▲救世教常念會二月例會 十三日午後七時より麹町大日本私立衛生會に開けり」

 ⇒宮田脩は明治から昭和時代前期の教育者。

 史料中の「救世教常念會」について、似た名前の宗教団体に、岡田茂吉が立教した世界救世教がある。しかし、立教された年は1935年(昭和10年)であるため、1919年(大正8年)の史料にある「救世教常念會」は別の組織である。調査不足のため、詳細を示すことはできない。今後の課題としたい。

 

世界救世教関連書籍:療術から宗教へ─世界救世教の教団組織論的研究

 

25.1919年(大正8年) 6月 14日 「本日の集會」

一部引用↓

「▲佛光錄提唱(白山道場)後四時宮路宗海 ▲明治會館後二時聖教讃仰會前田慧雲、七時半(日米貿易の將來)三輪末彦(安全週間)泉道雄▲傳教大師讃仰講演(淺草公園傳道館)黒板勝美高島米峰」「求道會後七時(救濟の意義)近角常観、九段佛教俱樂部一時」

宮路宗海は愛知県渥美郡高根村宮路安吉氏の四男として生れた、鎌倉円覚寺派管長を務めた人物である。史料中にも示されているように、大正2年から東京白山道場の要請に応じて、道俗のために集会等の活動を行った(以上の記述は、ルーブル社出版部編『大日本人物名鑑〔巻5の1〕』(ルーブル社出版部、1922、P99-100)を参照とした)。また、宮路宗海には徳富蘇峰とも接点がある。

学究:徳富蘇峰(16)関連史料[15]

前回同様、朝日新聞掲載分から確認していきたいと思います。

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34.1902年(明治35年) 10月 21日 「●監獄改良演説會」
全文引用↓

「一昨日午後三時より神田錦輝館に於て開き清浦法相、下田歌子、徳富猪一郎等諸氏の演説あり監獄改良問題の演説會は初めての事とて非情の盛會なりき」

 ⇒神田錦輝館で開催された「監獄改良演説會」の模様が紹介されている。清浦法相とは「清浦奎吾」のこと。下田歌子は、明治から大正期にかけて活躍した教育者で歌人。女子教育の先駆者で、「帝国婦人協会」設立、実践女子学園の基礎を築いた人物である。

 

下田歌子関連書籍:新編 下田歌子著作集 女子のつとめ 【現代語訳】 (新編下田歌子著作集)

          凛として―近代日本女子教育の先駆者下田歌子

          花の嵐―明治の女帝・下田歌子の愛と野望

          妖傑 下田歌子

 

35.1902年(明治35年) 11月 1日 「●會」

一部引用↓

 「▲東京商業學校 今一日午後一時より學生大會を催し左の諸氏演説をなす由 公爵近衛篤麿 阪谷芳郎 徳富猪一郎」

 ⇒「東京商業學校」での演説会。近衛篤麿は、第34・38・39代内閣総理大臣近衛文麿の父。華族の出身であるが、「特権はそれを持たない人々への義務によって釣り合いが保たれるべき」という意識(ノブレス・オブリージュ)を自覚して、種々の活動に取り組んだ。また、「アジア主義の盟主」としても活躍し、頭山満・平岡浩太郎・内田良平玄洋社メンバーなどと、国民同盟会・対露同志会を結成し、満州開放論を唱えた。(近衛篤麿については、まだまだ学究不足の感がある。個人的に勉強を続けたい。)

 阪谷芳郎は、大蔵大臣・東京市長などを務めた日本の政治家で、明治神宮及び明治神宮野球場造営、乃木神社建立、紀元二千六百年奉祝事業開催に尽力した。

 

*近衛篤麿関連書籍:近衛篤麿―その明治国家観とアジア観 (MINERVA日本史ライブラリー)

          日露戦争と韓国併合――19世紀末-1900年代 (岩波講座 東アジア近現代通史 第2巻)

 阪谷芳郎関連書籍:阪谷芳郎関係書簡集

学究:高嶋米峰(15)関連史料[14]

前回同様、朝日新聞掲載分から確認していきたいと思います。

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21.1918年(大正7年) 9月 22日 「●本日の集會」

一部引用↓

「▲求道會(前九時)如來廻向之意義(近角常観)」「▲統一閣(後一時)日蓮上人の感激(本多日生)▲日蓮主義講演(後六○)蓬○町長元寺(望月日謙、志水義暲)」「▲美土代町青年會館(後二時)内村鑑三▲本郷教會(前十時)海老名弾正」「南千住隣人會(後七時西光寺)彦根育太郎、西川光二郎、高島米峰、野口復堂」

 ⇒宗教者による集会が同日に多く開催されている様子が確認できる史料。近角常観内村鑑三海老名弾正ら、講演会の常連の名前が確認できるとともに、当時の「日蓮宗」の内部での複雑性も垣間見える。本多日生は、国柱会田中智学と手を組み、「日蓮主義」の思想を広めていったことで有名であるが、彼の講演会と同日に、望月日謙志水義暲による「日蓮主義講演」が開かれている。望月日謙は、身延山久遠寺83世法主立正大学長を務めた人物で、同じく立正大学長となった、第55代内閣総理大臣石橋湛山に、宗教面・教育面で多大な影響を与えている。(そもそも、石橋湛山の父は、身延山久遠寺81世法主日蓮宗24代管長を務めた杉田日布(湛誓)であることも、忘れてはならない点である。)

○志水義暲の略歴(志水義暲文庫 | レファレンス協同データベースより引用) 

東京帝国大学文科大学哲学科(社会学専修)卒業の翌年の大正4(1915)年以降、
日蓮宗大学(現立正大学)、愛知県女子師範学校、愛知県第五中学校で教壇に立ち、
大正10年に文部省専門学務局勤務、大正12年高知高等学校教授(哲学)となった。
大正14年に職を辞してドイツのベルリン大学社会学を研究し、昭和3(1928)年
に帰国。大阪外国語学校生徒主事兼教授を経て、昭和10年に文部省と督学官、昭和
12年には新設の教学局教学官となり、教学局指導部普及課長を務めた。その後も
栃木師範学校長、教学練成所練成官、佐賀高等学校長を歴任し、昭和21年に退官した。
この間、『国体の本義』や『臣民の道』の編纂に携わり、昭和10年代の国民思想の
動向に深く関与した。

 

石橋湛山関連書籍:石橋湛山評論集 (岩波文庫 青 168-1)

          石橋湛山:思想は人間活動の根本・動力なり (ミネルヴァ日本評伝選)

          石橋湛山―リベラリストの真髄 (中公新書)

 

 

22.1918年(大正7年) 12月 10日 「●言語の國際聯盟 悉曇文書の展覧 第五回大藏會」
一部引用↓

「學界佛教界の篤志者に依りて首唱され毎年秋冬の頃を以て東西兩京に開館される大藏會は八日の日曜神田表猿樂町の明治會館に催され高楠、藤岡 黒板の各博士や申川忠順、渡邊ドクトル、高島米峰氏等が頼に會場を斡旋する午前十時前後から各方面の名士帝大や各佛教大學の教授學生等三百餘名参集階下の大廣間二室には(以下、中略)」

⇒「第五回大藏會」の模様が示されている。史料中の「高楠」は高楠順次郎、「藤岡」は藤岡勝二、「黒板」は黒板勝美のことを指していると考えられる。高楠順次郎は、オックスフォード大学でマックス・ミュラーから比較宗教学、サンスクリット文献学を学んだ人物で、後に東京帝国大学教授、東洋大学学長を歴任した。また、『中央公論』の前身となる『反省会雑誌』の刊行を学生時代に始めたことでも知られる。

 藤岡勝二は、東京帝國大學国語研究室の初代主任教授・上田萬年(小説家・円地文子の父)を継いで言語学教授をつとめた言語学者。高楠とは、東京大学青年仏教会の支援者として懇意の仲。

 黒板勝美は、日本古文書学の権威で、東京帝国大学教授を務めた。高楠とは、エスペラント語の普及に力を注いだ同志である。

 上記の三人には、「サンスクリット語」「国語」「古文」といった「言語」に携わり、また「東京帝国大学」に籍を置いていたという共通点がある。

 

高楠順次郎関連書籍:インド思想から仏教へ――仏教の根本思想とその真髄

           東洋文化史における仏教の地位

           近代日本思想としての仏教史学

           戦後歴史学と日本仏教

 藤岡勝二関連書籍:日本における近代「言語学」成立事情 I: 藤岡勝二の言語思想を中心として

 黒板勝美関連書籍:黒板勝美の思い出と私たちの歴史探究

学究:徳富蘇峰(15)関連史料[14]

前回同様、朝日新聞掲載分から確認していきたいと思います。

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32.1902年(明治35年) 7月 16日 「●政治學校卒業式」

全文引用↓

「昨日青年會館に於て擧行せり來賓福地源一郎氏は安政年間に於ける我國金貨産出の實況を詳説し徳富猪一郎氏は新聞記者の心得と題し記者たるものは足で書くを第一義とし手で書くを第二義とすべき事、耳よりは目の観察力を養ふ可き事、見聞の總てを書く記者よりは寧ろ秘密の鍵を深く藏して多く書かざる記者を貴ぶ可しと説き金子男は自活の道を求む可き事、責任の観念を持する事、組織的(そしょくてき)の頭脳を涵養する事答を述べたり」

⇒「青年會館」で挙行された「政治學校卒業式」の模様が描かれている。この式典では、福地源一郎、徳富猪一郎、金子男(おそらく、金子堅太郎)の三人が演説を行っている。徳富猪一郎は一ジャーナリストの立場から「新聞記者の心得」を語る。新聞記者は、で書くを第一義とし、で書くを第二義とするのがよい②耳よりは目の観察力を養うのがよい③取材して得た情報をすべてありのまま記事にしてしまうより、幾つか明らかにしないで秘密の情報をもつ記者になるのがよい。今の時代でも通じるような教訓であると言える。

 

*福地源一郎関連書籍:幕府衰亡論 (東洋文庫)

           幕末政治家 (岩波文庫)

 

 

33.1902年(明治35年) 8月 2日 「●全國小學校教員大會」

一部引用↓

「明三日帝國教育會に於て開く第一回同大會は五百餘名の申込みあり會員の實験談に次ぎ左の論題に付討論を爲し終りて辻新次、三輪田眞佐子、眞野文二、伊澤修二、加納久宣、徳富猪一郎、寺田勇吉、金子堅太郎諸氏の小學校及教員に關する演説あり餘興には各書肆の寄付に係る書籍六百餘種の福引ある筈(以下、省略)」

⇒「全國小學校教員大會」の第一回大會の紹介がなされた記事。会の主な中身は、小学校及び教員に対する有識者の意見発表と、書籍が獲得できる福引である。演説者のうち、辻新次は、明治前半期の殆どの教育制度整備に従事したため、「文部省の辻か、辻の文部省か」(安倍季雄編 『男爵辻新次翁』 での表現)と言われるほどの文部官僚である。三輪田眞佐子は、勤王家・三輪田元綱の妻で、日本女子大学設立に寄与した教育者。眞野文二は、明治から昭和前期に活躍した機械工学者で、九州帝国大学総長や枢密顧問官なども務めた。東京帝国大学時代の講義ノート機械遺産(一般社団法人・日本機械学会が、機械技術発展に貢献・寄与したとして認定した日本国内の物件の総称)に認定されたことでも有名である。加納久宣は、第92代内閣総理大臣麻生太郎の曾祖父。

 

*辻新次関連書籍:男爵辻新次翁―伝記・辻新次 (伝記叢書)

 金子堅太郎関連書籍:金子堅太郎: 槍を立てて登城する人物になる (ミネルヴァ日本評伝選)

           金子堅太郎が語る大日本帝国憲法の精神: もう一人の起草者が見た伊藤博文、明治天皇、そして外国憲法との比較

           明治三十七年のインテリジェンス外交――戦争をいかに終わらせるか (祥伝社新書198) (祥伝社新書 198)

 

学究:高嶋米峰(14)関連史料[13]

前回同様、朝日新聞掲載分から確認していきたいと思います。

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19.1917年(大正6年) 5月 25日 「●新佛敎俱樂部」

全文引用↓

 「十數年前境野黄洋、加藤咄堂、高島米峰鈴木大拙、渡邊海旭其他佛敎界の青年有志を中心として創立せる以來機關雑誌新佛敎を發行し熱烈なる筆舌を揮つて敎界思想界の諸問題の爲に宗敎界の一部に異彩を放ちつゝありし新佛敎徒同志會は去大正四年夏發刊十五年に際し突如廢刊を宣言したる後久しく鳴りを鎮め居たるが此程に至り組織を變更して新佛敎徒同志會俱樂部と改稱し事務所を市外池袋一〇八に置き歴史的主義精神を尊重すると同時に幾分包容的態度を以て此際新人物の加盟を容れ毎月例會を開き年數回の演説會を催す外随時宗敎界思想界の爲めに必要の運動を爲す筈にて二十六日午後六時半より神田橋外和強樂堂にて第一回演説會を催すべしと」

⇒境野黄洋、加藤咄堂、高嶋米峰を中心に、明治から大正初期にかけて、既存の宗教界に疑問を提示し続けた「新佛敎徒同志會」に関する記事。本会は、発行雑誌『新佛教』を大正四年夏に廃刊して後、その活動をとめていたが、今回大正六年時をもって新たに「新佛敎徒同志會俱樂部」という名で活動を再開した。事務所の移転、新メンバーの加入、第一回演説会の開催予告などが伝えられている。

 

鈴木大拙関連書籍:日本人のこころの言葉 鈴木大拙

          大乗仏教概論 (岩波文庫)

          日本的霊性 (岩波文庫)

 

20.1917年(大正6年) 11月 17日 「●東洋大學記念講演會」
全文引用↓

 「(午後一時小石川原町東洋大学)△日本神話の特色について(井上哲次郎)△今昔の所感(村上専精)△英佛獨教育理想の差異と戦後教育(稲垣末松)△東洋學の研究(境野黄洋)△無學者の有學者観(高島米峰)」

 ⇒東洋大学での記念講演の内容が示された記事。帝国大学での日本人初の哲学教授・井上哲次郎を始め、学究ブログお馴染みの村上専精、境野黄洋、高嶋米峰らが講演者として名を連ねている。史料中の稲垣末松は、滋賀県立膳所高等学校同窓会のHP(https://dosokai.link/zezekoukou/old_and_new/head_teacher/)内「膳所高校歴代校長」で初代校長として示されている「稲垣 末松 先生」と同一人物の可能性が高い。一教育者として講演によばれたのだろう。

 

井上哲次郎関連書籍:国民道徳とジェンダー―福沢諭吉・井上哲次郎・和辻哲郎

           明治哲学界の回顧 結論——自分の立場